イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「カタストロフを経て、私たちは……。」

 
 論点:
 真へと向かう限りにおいて、美は美たりうる。
 
 
 真実を、何かあるものの、ありのままの姿を知ろうとすることは、時に息切れのするような、命をすり減らすような企てになることもある。しかし、本当に美しいと言えるような作品には、たとえほんのわずかなものであるとしても、この息切れのモメントがどこかに必ず刻み込まれているというのも確かなのではあるまいか。
 
 
 芸術作品が芸術作品たりうるのは、作品の中に真理を打ち立てるからなのである。今日、芸術という言葉が以前よりも用いられなくなり、この営みというものに対する関心も減ってきているとすれば、その理由は一つには、真理というものに対する人間の意志が挫かれ、挫折し、人間が、ほとんどそれを軽蔑するに至っているということのうちに求められるのではないだろうか。
 
 
 私たち今日の人間は、真理を軽蔑している。このことには恐らく、前世紀の人間たちが、自分たち自身が燃え尽きるほどまでに真理を求め、そのことの結果として、二度と繰り返してはならないような悲劇を引き起こしてしまったことも遠いところで関係しているだろう。それはまさしく、言葉の純正な意味における悲劇だったのである(cf.アイロニカルなリベラリズムという我々にはなじみの政治的立場は、第二次大戦前には今日ほどの「自明性」を持ちえなかったであろう)。
 
 
 友愛に関するモーリス・ブランショの思考を念頭に置きながらジル・ドゥルーズも指摘しているように、人類は、カタストロフを経てしまったのである。私たちがふだんほとんど意識しないとしても、この災禍の消しえない痕跡は、私たちの感受性の隅々にまで実は及んでいる。私たちはたとえば、ある欺瞞と恥辱の感情を覚えることなしには、「人間の歴史はすばらしい」と口にすることはできなくなってしまった。それは、人間の人間性が、取り返しのつかないしかたで踏みにじられてしまったことの残滓が、忘れやすい私たちの内においてもまだ影を投げかけ続けているからに他ならない。
 
 
 
真実 芸術作品 リベラリズム 第二次大戦 モーリス・ブランショ ジル・ドゥルーズ カタストロフ 人間
 
 
 
 私たちはおそらく、自分たちでそう思っているよりもはるかに歴史的な存在である。私たちが今日、互いに侮蔑のまなざしを投げかけながらでしか互いに言葉を交わしえず、恥辱の感情を混じらせながらでしか友情を結びえなくなっているとすれば、そのことの背景には、私たち自身を作り上げている大きな歴史の流れがあることは間違いないだろう。
 
 
 「美とは、存在するものから放たれる輝きである。」この定式化は、存在することへの嫌悪がもはや当たり前のものとなっている時代において、なおも人間に語りうる何ものかを持ち続けているだろうか。存在するものは美しい、「美」と「真」、「存在するもの」とは相互に置き換え可能であるというのが中世スコラ哲学の結論であったとするならば、筆者も哲学者としてはやはり、この定式化を提出しておくことが務めなのではないかと思う。筆者自身も歴史の重みを知っていると言い切れる自信は全くないのではあるが、哲学を学び、探求している人間の一人として、「美とは、存在するものから放たれる輝きである」というテーゼを美に関する探求の結論として掲げつつ、次回、これになお一点の規定を付け加えることとしたい。