イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「生は、生きるに値するのか」

 
 論点:
 本質の問いを問うことは、この世界と生を尊敬することを前提としている。
 
 
 たとえば「美とは何か」と問う時には、ひとは美というものを何か問うに値する、探し求めるべき何ものかとして追い求めている。美しいものなどどうでもいいと思っているのなら、そもそもそんなことを問いかけたりはしないだろう。ひとがその本質を追い求めたいと思っているものとは、その人が価値を見出しているものに他ならないのである。
 
 
 哲学をすることと何かを尊敬することとは、切り離せない。この論点について考えておくことは、今日、非常に重要なのではないかと筆者は感じている。というのも、今日の人間には、次の問いがますます重くのしかかってきているように思われるからだ。
 
 
 問い:
 生は、生きるに値するのか?  Is life worth living?
 
 
 生きることと心を病むこととが、ほとんど同義のことになってしまっている。これが、この時代を生きている人間たちが意識的であれ無意識的であれ感じとっている、根本的な直観なのではあるまいか(上の問いは、おそらくは問いの問い方それ自体が間違っているのではあるだろうが、その間違え方自体が既に、今の時代の人間について多くのことを語っている)。
 
 
 この直観が、情報技術のあまりにも急速な進化とも相まって文脈病という宿痾と人間性の軽視とがますます加速しつつある、今のこの国の人間たちにだけ共有されているものだということもありうる。それでも筆者には、この直観が根底のところではこの国を越えて、現代という時代の核心に触れていること、あるいは、現代をも越えて、人間の人間性そのものの根幹に関わるものであることは、おそらくは間違いがないのではないかと思われるのである。
 
 
 
哲学 美 文脈病 人間性 哲学者 処方箋 善の研究 幻滅
 
 
 
 私たちはこの世界を、生きることを、あるいは何かを尊敬し、愛することを、あまりにも軽率に侮蔑している。私たちはこの軽率さの代償を、おそらくは自分たち自身で支払うことになるだろう。
 
 
 哲学者たちがはるか昔から本質の真理を問い続けてきたのは、根本のところではただ、生きることを学ぶためであった。生が苦しみと幻滅に満ちているということは、彼ら自身も私たちと同様に、あるいは私たち以上に知っていたに違いない。けれども、彼らは考えることを選んだ。考えることを選んだ、すなわち、考え続けることの労苦を厭わずに、愛そうと努めることを選んだのである。
 
 
 今の筆者には、時代に対して処方箋を提示するというような大それたことが哲学にはできるとは思えないし、そういうことを目指すべきだとも思えない。哲学はただ時代の病と、つまりは自分自身の病と向き合いながら、なしうる限りにおいて自分自身の「善の研究」を続けるのみである。その苦闘の結果として、その哲学が時代の病人であると同時に時代の医者たりえていたのかどうかは、おそらくは哲学が闘いを終えた後にのみ決定されるのであろう。