イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

見えない宝を、守り匿いつづける営み

 
 論点:
 本質の真理を守り匿うことは、哲学に固有の務めである。
 
 
 たとえば、真理という主題を取り上げて考えてみることにする。
 
 
 真理は、たとえ人間にとって語られるということがなくとも真理であり続けるであろうというのが、われわれの直観である。語られようと語られまいと、真理はそこにある。その意味では、この世に哲学者なる種族が存在していようといまいと、真理そのものにはなんの変わりもないと言えるのかもしれぬ。
 
 
 しかし、もしも世の中に哲学者が全くいなくなってしまったとしたら、この世は、哲学の真理が全く存在しないかのようにして営まれてゆくことになるのではないか。
 
 
 いや、多分世の中は、あまり変わらないのかもしれない。命題の真理のレベルでは真理は重要視されているので、自然科学の研究とか、テクノロジーの発展とかはそのまま行われ続けるであろう。生活はどんどん便利になってゆくであろうし、新しい「発見」にも事欠くことはないであろう。
 
 
 しかし、現在哲学という営みに関心を感じていたり、それに没頭している一部の人々は、そういう世界では生きてゆく上で大変な困難を、ひょっとしたら絶望をも感じるであろう。目に見える範囲では、世界にはほとんど何も変わりはないとしても、彼らにとっては、まるで呼吸するための空気を奪われてしまったように感じられるのではないかと思われる。
 
 
 
哲学 真理 人生とは何か 世界とは何か 美とは何か
 
 
 「人生とは何か」「世界とは何か」、そして、「真理とは何か」。哲学者たちはこれまで二千年近くの間、本質の問い(「〜とは何か」)を問い続けてきた。それは、語られなくとも変わらずに存在し続けるであろう本質の真理を人間にとってアクセス可能なものにするために、真理までの道を切り開き、守り続けるためであったと言ってよいのかもしれない。
 
 
 確かに、人間だから間違いもあるだろうし、不十分なところも無限にある。しかし、哲学を勉強すればするほどに、いやあ、人間ってなんだかんだ言ってすごいなあという気持ちにさせられてくるというのも確かである。本気で知りたいことがあれば、そこにはほとんどの場合にはいつでもたくさんの先人たちがいて、浅学なわれわれよりも広く深く、そして根源的に考えている。その遺産の豊かさを長年かけてわがものにしないならば、哲学の発展に貢献するということも叶わないであろう。
 
 
 哲学者として生きてゆくという以上、たとえば将来の若き哲学徒たちが「美とは何か?」「真理とは何か?」という問いを立てた時に、少しでもいいから参照されるような存在になりたいというのは自然な望みである。哲学の書物とはさしずめ、本質の真理を守り匿っている宝の蔵であると言えるのかもしれぬ。この問題について考えるならこの人のことをスルーするのは許されないというくらいに、問題をひたすらに問い詰めつづけた先人たちの仲間入りをいつか成し遂げたいものである。