イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

階段の安全性と、モスバーガーをめぐる考察

 
 筆者も酔狂は嫌いではないけれども、階段とは何かという問いを問うことは、今回の機会を除いては、おそらくはやってこないのではないかと思う。なるべく哲学的に実り豊かなものとなるように心がけるので、興味のある奇特な方はお付き合いいただければ幸いである。
 
 
 論点:
 階段は、安全性の高い移動手段である。
 
 
 エスカレーターと比較してみよう。筆者はこれまでの人生で手すりの付いていないエスカレーターを見たことがないが、まず間違いなく、そういうものはこの世には存在していないのではないかと思う。
 
 
 なぜというに、当たり前のことではあるが、仮にそんなものが存在するとすれば、危なくてしょうがないからである。われわれ人間とて、別にエスカレーターに乗ってる時に始終手すりにつかまってるわけではないとはいえ、いざという時につかまることのできる手すりがもしもないとすれば、その結果は見るも無残なる悲劇になるであろうことは、想像に難くない。
 
 
 これに対して、確かに階段の場合にもはしっこには大抵は手すりが付いてはいるんだけど、お年寄りの方などの場合を除けば、われわれはふだん、手すりのことはほとんど意識せずにスイスイ上ったり降りたりしているのではなかろうか。駅のホームとかについている階段なんかは幅も非常に広く、ラッシュ時の朝方にはめちゃくちゃに混み合っているとはいえ、大勢の人々が、何も問題を感じたりすることなしに次々と階段を上り下りしてゆく。階段とは、まことに安全な移動の手段であると言えるであろう。
 
 
 
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 今さらながらではあるが改めて考えてみると、われわれの身近にあるものや設備といったものには、安全性という特質が必要不可欠である。普段は意識することはないけれども、たとえばハシゴなんかと比べると、階段の安全性は一目瞭然であろう。
 
 
 余談にはなってしまうのであるが、安全性というと、筆者はかねてより、モスバーガーの多くのバーガーの安全性には一抹の疑念を感じている。いや、食の安全性というのでは全然ないのだが(おそらく、モスバーガーほど健全なファーストフードもなかなかないであろう)、食べている最中にトマトやらソースやらが飛び出るという危険のことを言っているのである。
 
 
 いや、バーガーをジューシーかつ味わい深いものにしようとする飽くなき情熱によってああいうことになっているという事情はわかるのだが、あれだけブシャブシャ飛び出るとなると、最悪の場合にはズボンに付着するなどといった悲劇にもつながりかねないのではなかろうか。それとも、これは単に筆者の食べ方が不器用なことに起因する、個人的な問題にすぎないのであろうか。
 
 
 ひょっとすると筆者には、小学生の頃の温泉旅行の途中でモスチキン二個を注文したところ、間違ってモスバーガー二個が来て、「お母さん、これ違うよ」と言ったらなぜか母に「黙って食べなさいキエエエェ」と激怒されて泣きながらモスバーガー二個を食べたという心の傷があるゆえに、物事をまっすぐに見つめることができなくなっているというだけなのかもしれぬ。次回からはふたたび話をモスから階段に戻すこととしたいが、筆者は現在でも消えることのない心の傷を抱えつつ、時折はモスチキンを食べるためにモスバーガーには通っている次第である。