イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

鉄道の駅に関する考察

 
 論点:
 私たちはふだん、階段の存在を主題的に意識することはない。
 
 
 筆者は今回の問い「階段とは何か」を問うまでは、これまで階段のことを考えたり、ましてや考察するということはほとんどなかった。この点、おそらくは読者の方々も、多かれ少なかれ事情は同じなのではないかと思う。
 
 
 われわれはふだん、「ああ、暑いなあ」「帰りに井村屋のあずきバー買って帰ろう」「なんでみずきちゃんからLINEの返信来ないんだよちくしょう」等々、何か別のことを考えながら階段を上り下りしている。逆を言えば、われわれは日常生活のうちで、意識はしないけれども、低い場所から高い場所へ、また高い場所から低い場所へと、高低差の推移を含む移動をたえず行っているわけである。
 
 
 考察を深めるための補足的事実:
 鉄道の駅というのは人間にとって、高度に機能的な空間である。
 
 
 身近にある電車の駅を思い起こしてみてほしい。階段のない駅というのは、よっぽど田舎の方の小さな駅というのでもない限り、ほとんどないはずである。
 
 
 それというのも、事物の本性からすると至極当然のことと言わねばならないのであって、われわれは線路と線路によってはさまれた、あのホームと呼ばれる空間に到達せねばならないのであるから、線路を歩いて横断するというのでない限り、一度は上ってはまた下りて、あるいは下りてはまた上ってという移動を行わなければならないわけなのである。ホームが真ん中ではなく両側に配置されている駅であっても、ホームとホームの間の移動は原則的には可能でなければならないから、階段を付けなければならないのはやはり変わらないと言ってよいのである(以下、ホームは原則的に真ん中にあるということで話を進める)。
 
 
 
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 自分で書いていて、ふだんから哲学に関心のない人には退屈この上ないこのブログも、今回は哲学愛好者にとっても退屈の極致としか言いようのない地点に到達しつつあるのではないかという一抹の懸念に取りつかれつつある。しかし、筆者は先ほど、自分的にはかなりタウマゼイン(驚愕)させられる一つの事実に気づいてしまったゆえ、ここに記すことを寛恕されたい。
 
 
 上に書いたことには、数は少ないが例外もなくはないように思われる。たとえば、江ノ島で遊んだ後に帰る途中の哲学徒は(今年の夏は、出かけるのは控えた方がいいような気もするが、平常時の場合を想定されたい)、次のように思うかもしれぬ。あれ、philoさんは駅には必ず階段があるとか書いてたけど、ふつうに歩いてるだけなのにホームに着いちゃったぞ、と。
 
 
 しかし若者よ、それは他でもない、片瀬江ノ島駅が路線の始発駅だからなのである!すなわち、通常ならば何らかの手段で、つまりは階段で線路をまたがねばならない、ということは上っては下りる、あるいは下りてはまた上るという面倒なワンクッションをはさまねばホームに到達できないところが、始発の駅ならばその動作をはさまずに、極めてスムーズにホームに移動できるわけである。なぜならば、始発の駅は線路が始点で切れており、その始点よりも手前あるいは奥にはもはや「線路がない」ゆえに……。
 
 
 つまり、路線の始発駅または終点の駅では、ふだん当たり前のものとなっている「線路は続くよどこまでも」の原則がもはや機能せず、線路が「いまだない」あるいは「もはやない」という未曾有の領域に突入するがゆえに、ふだんは必ず付随しているはずの階段による高低差の移動も消失するということなのであるが、かようにマニアックな発見の感動をはたして読者の方にも共有していただけるものかどうか、少なくとも安易に期待すべきでないことは確かである。最後まで付き合ってくださった方には、その寛容と忍耐に感謝せずにはいられない次第なのである。