ところで、階段には以下の二つの類型を区別することができるのではないかと思われる。
階段の二類型:
①消極的階段。
②積極的階段。
①は急な斜面やちょっとした高低差のある場所に設けられる階段であり、消極的というのは、「階段を積極的に作りたいわけではないけれども、もともとの地形上、階段を作らないと行き来できないので作った階段である」という意味である。われえわれはこれを、自然の中の階段と呼ぶこともできるであろう。
これに対して②は、別に地形としての斜面がもともとあったわけではないが、階段を作ることによって利用可能面積が大幅に増えるがゆえに、いわばゼロから作られる階段のことを指す。家の階段とかマンションの階段はその典型であり、一戸建ての家はたとえば二階建てにすることによって、もともとの土地の広さの二倍近くの面積を利用できるようになるわけである。このタイプの階段は先との対比でいえば、建築における階段と呼ぶこともできそうである。
①と②とを対比してみて改めて分かることであるが、階段とは①におけるように「道である」というだけではなくて、②の場合には、人間にとって利用可能な空間のポテンシャルを飛躍的に増大させてもいる。池袋・新宿・渋谷なんかは、特に駅の周辺部は階段とエレベーター、通路と交差路が複雑に組み合わされた超高機能空間を現出させているわけであり、人の流れと高低差の関係、そこに階段が組み合わされてゆく仕方を研究するならば、考えて飽くことがないであろう。
さて、名前にいちおう「消極的」とつけてはみたけれども、①の方の階段、すなわち自然の中の階段は、歩いていて実に気持ちのよいものである。
郊外の住宅地の階段なんかは、上るのは大変だけど、上に着いてしまえば大抵はいい景色が楽しめるし、自然豊かな公園や山も、階段そのものは労苦であるが、ああ、人間ってやはり日々の生活の中で自然に触れないといかんなあ、技術時代の人間ってほんとに故郷喪失しておるなあと、『もののけ姫』あるいは後期ハイデッガー哲学的な気分にさせられる。
しかし話は逸れるけど、『アシタカせっ記』(言わずと知れた、『もののけ姫』劇中の名曲)ってハイデッガー先生の後期哲学のテーマ曲かなんかなのではないかと思わされるくらいに、雰囲気がぴったり合いまくっている。
逆に、「ハイデッガーの『四方域』(天・地・死すべきもの・神々しいものの四者の交錯)って、もはやこれ哲学なのお、『存在と時間』とかはまだまともそうだけどさあ、後期ハイデッガーってなんか疑わしいなあジロジロ(疑いの目)」と思っている疑り屋さんの同志には、できるだけ大きな公園とか森とかに出かけていって、先生の書物の一節を読んだ後にスマホで『アシタカせっ記』を聴くなどしてみてほしい。これとて技術時代の末路を象徴するかのごとき方策ではあるが、やはりハイデッガー先生の言う通り、〈転回〉は起こるのかもしれぬ、自然ってやっぱりすごんじゃね、ていうか久石譲先生天才すぎじゃねと思わされること確実である。気がつけば「生きろ、そなたは美しい」「黙れ小僧!」などの名ゼリフを思わず口走ってノリノリな気分になることは避けられぬと思われるが、偶然通りかかった人にノリまくっているところを見られるとウルトラ恥ずかしいゆえ、シーン再現の前には十分に人目を警戒されることをお勧めしておきたい。