イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

非常階段と緊急事態

 
 階段には、前回までとはまた別の二類型を区別することもできるように思われる。
 
 
 ①通常の階段。
 ②非常用の階段。
 
 
 数でいえば恐らくは圧倒的に少ないであろうが、②の階段というのも確かに存在する。たとえば、かの東京スカイツリー(雰囲気だけでも味わいたい方には、相対性理論によるメンタル崩壊型東京観光ソング「帝都モダン」をお勧めする)にはエレベーターが動かせない災害時に備えて、2000段もの避難階段が付いているそうである。こういう階段は、ふだんは全く使わないとしても必ず備えておかねばならぬということで、設置されているわけである。
 
 
 そういう意味では、この種の階段は、非常用ボタンとか消火器なんかに近い存在であると言えそうである。読者の方には、あの赤い消火器なるものが実際に使われる瞬間を見たことがおありであろうか。筆者はまだないが、何十年も使われるのを一度も見たことがないとはいえ、学校やビルなんかには、あれがないと防災上問題ありとされてしまうわけで、いわばこれは「ずっと使わないでいた方がいいけれど、必ず存在はしていなければならない道具」という、非常に特殊なタイプの道具に属するといえる。
 
 
 スカイツリーを階段で降りたり、備えつけてあった消火器から消化液を噴射するというのは、言うまでもなく、普段の平和な日常からはかけ離れた光景である。しかし、人間の生活や住空間は、実はそういう緊急事態をしっかりと考慮に入れた上で設計・運営されているという事実は、哲学的には極めて重要なものであると言えそうである。
 
 
 
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 「これまでの政治哲学は、いわば通常時の状態からしか国家や社会を考えていなかったけれども、例外状態=緊急事態という側面を考慮に入れると、全く違う風景が見えてくるのではないだろうか。」
 
 
 カール・シュミットや、彼の仕事を独創的な仕方で取り上げたジョルジョ・アガンベンらによって新たな政治哲学の地平が切り開かれたことにより、ホッブズ・ロック・ルソー路線の近代的国家観は、根本的な見直しが必要であることが改めて明らかになってしまった。社会契約論的な国家観は、今でも義務教育の中で中学生たちが学んでいるものであり(つまり、私たちの社会は今でもこの国家観を「公民あるいは市民として誰もが知っておくべきこと」のうちに数え入れている)、一度きちんと学んでおくべきことは現在でも全く変わらないとはいえ、「例外状態=緊急事態の政治哲学」は、これからますます政治哲学におけるスタンダードとなってゆくことが予想される。
 
 
 非常用の階段というわれわれの取り上げた例に戻ると、今回の考察から見えてくるのは、「われわれの生活世界は、安全という絶対的な基準を守った上で営まれている」という、通常の場合には表立って見えてくることのない事実である。普段の生活では、利便性とか快適さといったものの方が前面に出てくるけれど、実はそういったものは安全性という有無を言わさぬ条件をクリアした上ではじめて問題とされうるものであると言えそうである。この辺り、政治哲学的にも、それから実は純粋哲学的にも非常に重要な論点なのではないかと思われるので、次回の記事でもう少し突っ込んで考えてみることにしたい。