イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

剥き出しの生という問題圏をめぐって

 
 論点:
 哲学を探求するにあたっては、例外状態に対する鋭敏な眼差しが必要とされるのではあるまいか。
 
 
 スカイツリーの例に即して、もう少し考えてみることにしよう。ソラカラちゃんやショッピングモール、それに何よりも展望台など、東京スカイツリーにはめぐってはさまざまなコンテンツを考えうるけれども、目下の探求においては、2000段もあるという避難階段について考えておくことが重要である。
 
 
 例外状態=緊急事態はこの場合、建築構造の中に排除されると同時に包摂されている。これがジョルジョ・アガンベンのいうexceptio(エクスケプティオー)の構造であるが、要するに避難階段ってふだんは全く使わないけれど、片隅に追いやられながらも、本当は、人々がスカイツリーを利用する活動そのものを可能にしてもいるわけである。
 
 
 考えにくい事態ではあるが、たとえば何らかの事情によって避難階段が使用不可能な状態になったとすれば、スカイツリー側としては展望台の観覧を中止せざるをえないであろう。避難階段が使えない以外は普段と全く変わらないにも関わらず、しかも、普段は避難階段なんて全く使っていないにも関わらず、である。避難階段をめぐる思考実験はこのようにして、日常生活の中では見えなくなっているけれども実は常に伏在し続けている、剥き出しの生としての私たち、ゾーエーとしての私たち(今の場合にはもっぱら生命活動の維持が問題となっている、生政治的身体)を露わにするというわけである。
 
 
 
スカイツリー ソラカラちゃん ジョルジョ・アガンベン ゾーエー 絶滅収容所 原爆 剥き出しの生
 
 
 
 私たちの日常を、それを見えにくい仕方で構成している例外状態の方から、排除されつつ包摂されている例外状態の方から考えてみるということ。このことが哲学の務めであるという点については、筆者は最近では前にもまして納得がゆくようになってきている。
 
 
 たとえば、絶滅収容所や原爆といった二十世紀の惨禍は、人間がまさしく「ゾーエー=剥き出しの生」の次元に追いやられてしまったという構造のうちで起こった出来事だったのではあるまいか。そういうことがなぜ起こってしまったのかを、単に人道的に許されないと非難するだけではなくて(そういうことも、もちろん必要不可欠なのではあるが)、もっと原理的な次元から根源的に考えておくというのは、おそらくは哲学にこそ委ねられている仕事なのであろう。
 
 
 事は、政治的・社会的な出来事の次元にとどまらない。私たちの大半は、生きるとか死ぬとか、そういう危機的な次元の大騒擾には巻き込まれることなく日常生活を送ることができているけれども、たとえば今のこの国においても「剥き出しの生=なんで自分が生きているのかすら分からなくなってしまっている、ぎりぎりの生存」の次元で病んでいる人々というのは、少なからず存在していることが予想されるのである。今回の記事は深刻な方向に話が向くことになったが、この方面における思索の不十分さを認識しつつ、次回からはもともとの探求の主題に戻って考え続けることとしたい。