イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

これまでの探求の振り返り、あるいは、第一哲学に至る必然性について

 
 これまでの歩みを振り返ってみる。
 
 
 「エスカレーターとは何か」という最初の問いに対する答えは「エスカレーターとは、機械によって動かされる階段である」であったため、われわれはさらに「階段とは何か」と問い、これを探求した。
 
 
 その結果、出てきた答えはとりあえず「階段とは、高低差のある場所から場所へ移動するために利用される道具である」といったものである(ただし、この答え自体よりも、分析の過程で見えてきた生活世界的・人間学的事実の方が重要な成果であった)。階段を「道具」と呼ぶのには若干の違和感もあり、「制作物」くらいの方がまだ適切であるようにも思われるのではあるが、とりあえずはこの名称で通すこととする。
 
 
 さて、そうなると、「エスカレーターとは何か」という問いに十全に応えるために必要な探求は、少なくとも以下の三つのものを含むものと考えられる。
 
 
①道具の考察。
②道具の一種としての、階段の考察。
③階段の一類型としての、エスカレーターの考察。
 
 
 ①は、道具とは何か、人間が道具を用いるとはどのようなことかを考察するものであり、ここにおいては前述の通り、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』が必須参考文献になりそうである。
 
 
 これに対して②は、われわれが今回最も多くの労力を費やした課題であり、道具の中でも、とりわけて階段に当てはまる特質を探求するものである。筆者としては大いに情熱を燃やしながらこの課題と格闘したつもりであったが、先日、さる読者の方から「なんでずっと階段の話をしてるのか、よくわかりませんでした」というもっともなコメントをいただき、茫然自失させられている今日この頃である。
 
 
 最後に、階段の中でもその特殊な一類型であるエスカレーターを探求するという課題がある。これら①、②、③の課題をすべて極め尽くしたときにこそ、われわれは「エスカレーターとは何か」という問いに十全な仕方で答えることができるであろう。
 
 
 
エスカレーター 道具 階段 存在と時間 ハイデッガー 世界内存在 哲学者 第一哲学
 
 
 
 今回はこの辺りで分析を中断することにして、とりあえず②の課題に半月以上かけて奮闘したというところで満足することとしたい。われわれとしてはこれまでの探求から何が言えるのかを、最後に、主に二つの観点から考えてみたいのである(このことは、本質の真理の内実を探るという、われわれのそもそもの課題にも取り組むことになるはずである)。
 
 
 まず言えるのは、われわれがどんなささいな本質の問い(「〜とは何か?」)を立てるにしても、その問いは、どこかで根源的な哲学的問いにつながってゆくということである。
 
 
 「エスカレーターとは何か」という問いは、「階段とは何か」という問いを通して最終的には「道具とは何か」という地点にまで行き着かざるをえない。そして、「道具とは何か」という問いは、これはこれで、究極的には道具を用いている人間とはいかなる存在なのかという問いにまで発展してゆかざるをえないのである。たとえば、前述のハイデッガーが敷いている路線に従うならば、道具の分析は結局、道具を用いている現存在の「世界内存在」というあり方の解明にまで行き着くのである。
 
 
 「世界内存在」という語のもとにまで来たらもうかなり根原的で、哲学的探求としてはなかなかに深いところまで掘りつつあるといったところであるが、さらに進んで「世界とは何か」とでも問おうものなら、そして、世界の世界性を問うという課題にまで取り組みはじめるとするならば、それはもう、熟達した哲学者の領域と言えるであろう。何を問うにしても、結局は「第一哲学」の深みにまでつながってゆくという事実を改めて確認しつつ、次回の記事では、もう一つの観点からこの半月の探求の成果を総括してみることとしたい。