イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

具体的なものの必要性、あるいは、勇敢さという徳について

 三つの課題(再提示):
 ①道具の考察。
 ②道具の一種としての、階段の考察。
 ③階段の一類型としての、エスカレーターの考察。
 
 
 ここ半月ほどの分析を通して言える二つ目のこととは、具体的なもののもとにとどまる必要性である。
 
 
 たとえば、道具といっても「道具」というなにか一般的なものがそのまま現実に存在しているわけではない。存在しているのは「道具」ではなく、鉛筆であり、財布であり、階段なのである。
 
 
 道具の道具性を把捉するためには、どうしても何らかの具体的な道具のもとに踏みとどまって、自分自身で考えをめぐらせてみなければならない。それは、どのようにものをまなざせばよいのか、まなざしたものをどう言い表せばよいのかがあらかじめ与えられていないままに、とにかく試行錯誤を重ねてみることであり、エトムント・フッサールとその弟子たちはそのような態度を現象学的な態度と呼んで、これを学的な認識態度の高みにまで引き上げようと努力し続けたのである。
 
 
 今回、われわれは②の課題のもとに半月ほどとどまり、われわれの目の前に現れてくる階段の諸相を注視し、語り続けた。
 
 
 それは、郵便ポストの見え方について数ヶ月間語り続けたフッサールの粘りと執念にははるかに及ばないものであるとはいえ、それでも具体的なもののもとにとどまるとはいかなることかを学ぶ上では、貴重な体験であった……はずである。そこでの考察も、そのすべてが『存在と時間』の巨大な業績のうちに飲み込まれてゆくといったものではなくて、たとえば非常階段をめぐる議論などは、通常時の道具の使用のうちに排除されると同時に包摂されている「剥き出しの生の安全確保」という次元を露わにすることによって、現存在の実存論的分析の方にも新たな知見をもたらしうるものであったと言えるのではあるまいか。
 
 
 
道具 エトムント・フッサール 現象学 郵便ポスト 存在と時間 剥き出しの生 哲学 プラトン ドン・キホーテ
 
 
 哲学においては、先人たちの書いたものから深く正確に学びとる作業も必要不可欠であるが、テキストなしで現物のうちに飛び込んでゆく蛮勇も、実はそれと同じくらいに重要である。
 
 
 前者に必要なのは敬意と傾聴であるが、後者に必要なのはまずもって勇敢さである。プラトンが何度も強調しているように、哲学をするにあたっては、勇気という徳がなければ何事もなしえないのであって、「何も出てこなかったらどうしよう」とか「間違ったらどうしよう」とか、そういった心配(こうした不安は、ある程度までは正当であるだけでなく、不可欠でさえある)のせいで現実に潜行してゆくことができないとすれば、その時には臆病の誹りを免れえないであろう。
 
 
 むろん、先人の達成した功績を無視して、ドン・キホーテのごとく風車を巨人と思い込んで突っ込んでゆくというのでは、それは勇敢さというよりもむしろ誇大妄想と狂気であろうが、やらないで終わるくらいならば、いっそ恥と失敗を覚悟でやるだけやってみた方がよいのではないかとも思われるのである。テキストを穴が開くほどに読みふけることと、テキストなしで具体的なものという風車あるいは巨人に闘いを挑むことの両方が必要であるという意味では、哲学という営みにはまことに一筋縄ではゆかないものであると、今さらながら改めて思わされている次第である。