イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

流動する意味

 
 「ヤバい」という語の二つの意味(再提示):
 ①非常に危険である。
 ②死ぬほど素晴らしい。
 
 
 ①の意味から②の意味が生まれてきた次第を考えてみると、そこには、「①の内包的意味が、使用されつつドリフトしてゆく中で②を生み出してゆくプロセス」があったであろうことが予想される。つまり、現在では①と②とが(半ば無意識のうちに)いわば別々に使用されているけれども、①の中から、いわば①を食い破るようにして②が生まれ出てくるという出来事が起こったというわけである。
 
 
 ここでは話者たちに、「青天の霹靂というくらいにすばらしいのではあるが、自分たちのこれまでの実存のあり方を劇的かつ徹底的に変えてしまうようなものや出来事との出会い」が起こったものと思われる。しかし、考えてみれば、若者たちの日常というのはそういうハイテンションな出来事に満ちあふれているわけで、「うおぉもう死ぬ!」とか「ぶっ壊れたなあヤバいんじゃねこれヒャッホオオォウ!」とかそういった雰囲気の中で「ヤバい」という語の意味が突然変異を起こしたとしても、そういうこともさもありなんと言うべきなのかもしれぬ。
 
 
 さて、哲学の観点からして重要なのは、ここでは、語の意味の内包が通常時における指示関連から解き放たれて生成変化を起こすという、いわば、言語にとっての例外状態が現出しているという点である。
 
 
 つまり、これまでは「ヤバい」というのは「マジで死ぬほど危険なゆえに、ビビって警戒せねばならない」というシグナルであったところが、ある時突然に「死んだ後にぶっ生き返されて超絶ハイテンションになるくらいにサイコー」の証となるわけである。俗語表現の変遷の過程のうちに、死から生へという、生物としての、また人間としての大逆転のモメントが折り込まれているという事実には、きわめて興味深いものがあると言わざるをえない。
 
 
 
ヤバい 内包 外延 生成変化
 
 
 
 この例を検討してみて改めてわかるのは、言葉の意味とは何かという問題に十全な仕方で答えるためには、哲学者は、言語の領域のうちに閉じこもっているわけにはゆかないということである。
 
 
 語の内包的意味は、話者が出会うものや出来事との交わりの中で突然変異を起こす可能性がある。例外状態におけるこうしたものや出来事は、語が適用される単なる外延では全くないのであって、むしろ、自身が意味性を豊かにはらんでいるがゆえに語の意味の方にフィードバックをもたらすこともあるといったような、そうしたパラドキシカルな存在なのである。
 
 
 つまり、ここで必然的に話は複雑なものとなってこざるをえないのではあるが、意味という現象は、言語の内側だけにとどまりうるようなものでは決してないのである。意味は、言葉ものの双方を貫くようにして、たえず流動している。外延と指示関連が固定された静的なシステムという言語観は、ある意味では、言葉とものが相互に交わりながら織りなしているこの流動の世界からの抽象にすぎないとも言えるのである。われわれがここ二ヶ月ほど探り続けている本質の真理が住みついているのも、この、言葉とものとが互いから互いへと変容を及ぼし続けている広大な意味の領野にほかならない。