イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間は、唯一の考える葦である

 
 存在の問い:
 なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?
 
 
 まず最初に注目しておきたいのは、このような問いを問うのは、世界の中でも人間だけであるという一事実である。しかし、このことの意味を掘り下げる前に、二点ほど指摘しておかなければならないことがある。
 
 
 ①動物は、存在の問いを問うことはない。
 
 
 これは、「まあ、それはそうなんじゃないか」ということで納得してもらえるのではないかと思うのだが、その一方で、筆者はこれまでに「いや、わからないではないか、動物だって『自分はなぜ存在しているのだろうか』とか考えているかもしれないではないか」という類のことを言う人に何回か出会ったことがある。
 
 
 しかし、胸に手を当ててよく考えてみるならば、彼らは「ちゅーるうめー」とか「ご主人様、スキ♡」とかそういうことは(言葉によってではないにしても)考えているであろうが、「なぜ一体わたしは存在しているのか」と考えることは、おそらくないであろう。さらに、もしもそういうことが仮にあるとしても、いち存在者である自分自身を超えて全体としての存在者、すなわち世界そのものの存在を問うことは、ほぼ完全にないと言ってよいように思われる。こんなことを言うのもなんであるが、彼らの脳はそこまで発達していないのである(もっとも、忠犬ハチ公の生きざまなどは、人間より立派な可能性がなくもない)。
 
 
 
 存在 動物 ちゅーる 忠犬ハチ公 宇宙人 毛利衛
 
 
 
 ②宇宙人をはじめとする人間以外の理性的存在も存在の問いを問うかもしれないが、そうした存在はまだ発見されていないし、われわれが生きている間に発見される可能性もほぼないであろう。
 
 
 話を単純にするために、ここでは論究の主題を宇宙人に限定する。これは冗談で書いているのではなくて、半分は本気というか、哲学的には重要な論点につながっている。すなわち、「考える葦として実存を問い、宇宙の意味を問い、存在を問うのは、とりあえずはわれわれ人間だけである」ということである。
 
 
 「いや、宇宙人って絶対いると思うんですよ!」このようなことを言う人は多いし、純粋に自然科学的な観点からすれば、そういうことも大いに考えられるであろう。宇宙飛行士の毛利衛さんは、はじめて宇宙空間に出て地球を上から見たときに、宇宙人について「これはもう、確実にいるな」と直観したとのことであるが、はるか未来のどこかの時点では、人間以外の理性的存在とコンタクトを取る日が来るということも、なくはないかもしれない(それ以前に人類が滅亡している可能性の方がはるかに高そうであるというのは、鬱といえば鬱であるが)。
 
 
 しかし、夢を壊すようではあるが、2020年時点でこの地球上に生きているわれわれが宇宙人をコンタクトを取る確率は、ほとんどゼロに等しいであろう。「実は彼らはすでにやって来ている」式の主張は、談話で盛り上がるための俗説にすぎないことは言うまでもない。エリア51の内実は非常に気になるところではあるが、真相が宇宙人以外のところにあることだけは間違いないと思われる。
 
 
 何が言いたいのかというと、宇宙人という主題がホモ・フーマーヌスのフーマーニタースを、すなわち、人間の人間性をぼかし、忘却させ、曖昧にするための遮蔽幕として働くのを、人文知の徒としては閑却してはならないのである。人間は、少なくともわれわれが生きている間は唯一の考える葦なのであって、その事実こそがわれわれにとっては重要なのである。いささか冗談めいた話ではあるが、結論の部分は冗談でもなく真面目以外の何物でもないので、どう語ればよいのか、ほどよいバランスを取るのが非常に難しいところではある。