イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在論的差異の概念について

 
 論点:
 存在者は存在する。そして、あれこれの存在者からなる、この世界が存在する。
 
 
 存在の問いを問うことから見えてくるのは、普段は当たり前すぎる事実として通り過ぎてしまっている上の事実が、実は何か根底からの驚きをもって問われるべきものであるのではないかということであった。
 
 
 しかるに、われわれは日常において、存在者が存在するというこの事実を閑却してしまっている。世界がいかにあるかを気にかけ、世界の中で何をすべきかを思い煩いはするけれども、世界が「ある」というそのことには思いをいたすことがない。
 
 
 マルティン・ハイデッガーが提出した存在論的差異という概念はまずもって、われわれがこの閑却あるいは忘却から抜け出して、存在者が存在するという根源的な事実にあらためて注意を向けることを要求している。逆を言えば、この根源的な事実への気づきさえ喚起することができたならば、この概念の役割の最も重要な部分はすでに果たされたと言ってよいのかもしれない。
 
 
 存在者と、その存在者が存在するということの間には、差異がある。これが、存在者と存在の間の存在論的差異であるが、おそらく最初のうちは、その内容を理解したとしてもこの概念の何がそれほどまでに重要であるのかわからないという場合が多いのではないか。この概念は、たいていの場合にはそれ自体がなにか「何が重要なのか、よくわからないもの」として閑却されてしまうことも珍しくはないものと思われる。
 
 
 
存在 マルティン・ハイデッガー 存在論的差異 ボエティウス イブン・シーナー マイモニデス トマス・アクィナス
 
 
 
 この概念の重要性は、誰がどう見ても根源的であると一目でわかるような事象に目を向けさせるといった類のものであるわけではない。むしろ、差異がないように見えるところに差異を見出すこと、問うべきものなど何もないように思われるところに問うべきものがあることを示すところに、この概念の眼目はある。
 
 
 哲学を学ぶ人の中で、学ぶ前から存在の問題が根源的であると思っている人はいない。何を学ぶべきか、何を問うべきかもわからないままに、自分よりも先に根本問題に取り組んだ先人たちに好奇心の入り混じった憧れを抱きながら、先人たちが何を言っているのかを学ぼうとする場合がほとんどなのではないかと思われる。
 
 
 存在論的差異という概念の重要性は、現代の哲学の中でほぼ唯一の概念として、哲学の中核の問題はここにこそあるということをはっきりとわれわれに示している点にある。存在はかつてボエティウスによって、イブン・シーナーやマイモニデスによって、そして、トマス・アクィナスによって問われていたけれども、現代においては、おそらくはその時代そのもののうちにはらまれている必然性によって閑却されている。筆者とハイデッガーとでは、哲学史に対する見方はかなり異なってはいるけれども、存在問題に目を開かれるという面においては、彼の哲学に対して限りない学恩を負っていることは疑いえない。それはともかく、存在論的差異の概念は、この長い間の閑却から哲学に、ふたたび根本の問題へと目を向けさせようとするものであるが、この概念は本質的に、自分自身がそこに自然と目が向くようになってからでなければこの概念が提出された必然性もわからないといった構造を持つもののように思われるのである。