イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

わたしの存在をめぐる考察

 
 論点:
 わたしの存在は主観性よりも、まずもって、生によって定義されるものなのではないだろうか。
 
 
 わたしなる存在に関する限り、生きることと存在することは完全に一致する。この生は、意識としてのわたしと、他の誰でもない「この人間」としてのわたしの二つ折れとして与えられることになるけれども、この二つ折れの与えを二つ折れの与えたらしめているのはわたしの生そのもの、より正確には、わたしに与えられている生そのものである。
 
 
 なぜ「わたしに『与えられている』生」と表現する方がより正確なのかというと、わたしが生きているという、わたしにとってのこの根源的事実は、わたしが望んだからそうなったという類のものではないからである。
 
 
 わたしはまだわたしが存在しなかった時に、存在するようになることを望みはしなかった。かの時にはわたしそのものが存在しなかったのであるから、どうしてわたしが望んだり、望まなかったりすることがありえただろうか。いわば、存在しないわたしを呼び出して存在させるかのようにして、その出来事は起こったのである。
 
 
 主観性としてのわたしは、わたしがまさしく主観性であることをよりどころにして、「わたしはこう感じる」や「わたしにはこう見える」の絶対性に固執することもできる。しかし、わたしは本当は、自分自身が存在するようになるかどうかということに対してすら選択権を持っていないといったような無力な存在なのではないだろうか。近代以降になってからは至上のものとみなされている自由や自己決定権という考え方は、私の存在あるいは非存在という問題に対しては、全く妥当しないのである。
 
 
 
生 主観性 存在 デカルト
 
 
 
 ことは、私の誕生という出来事だけに関わるものではない。むしろ、私の生の一瞬一瞬が誕生と同じように、非-自己決定性という性格によって特徴づけられているように思われるのである。
 
 
 ある詩人は「昨日が自動的に今朝につながれた」と表現しているが、卓抜な言い方である。わたしが今のこの瞬間に存在していることから、次の瞬間に存在していることへの移行は言うまでもなく、わたしの意志によるものではない。わたしたちの生はいわば、わたしたち自身がそう臨もうと望むまいと、存在から存在へと刻々と保たれながら進行してゆくといえるのではないだろうか。
 
 
 この世界に生きる一人の人間としての「わたしはある」はデカルトがそうしたように「わたしは思惟する」に即してではなく、「わたしは生きている」に即して語られるべきだったのではないだろうか。そして、「わたしは生きている」としての「わたしはある」は、わたしの意志の自由によるのではない「存在から存在への絶えざる移行」として、常にわたしを超えたところからわたしを一人の人間として存在させ続けている。省みようとすればいつでも
省みることのできる、一見したところ平凡なこの事実は、本当は、何度くり返し考えてみたとしても古びることのない驚きの源泉であるように思われるのである。