論点:
わたしはこの世界に生きる一人の人間として、いつかわたし自身の死を死ななければならない。
わたしは日々、当たり前のように何かを見、聞き、語っている。しかしいつの日か、もはやわたしがこの身体によって見、聞き、語ることがなくなる日がやってくるというのは、わたしの想像を超えたことである。
生きるとは風景に、他者に、世界に開かれてあることであると言えるけれども、わたしの死はわたしがそのように開かれてあることを、少なくともいったんは終わらせることだろう。そのように考える時、人間には、自分が生きているということ、一人の人間として存在しているという事実が、何かこの上なく意味深いこととして立ち現れてくるのではないだろうか。
「すみやかな流れに向かって言え、私は在る、と。」
リルケの『オルフォイスに寄せるソネット』の、最終部の言葉である。この詩人はここで、人間にとって「わたしはある」は、そのことをことさらに言葉にして発する必要のある事実の中の事実であると語っていることになる。
永遠に生き続けるのではなく、いつの日か死によって終わりがもたらされることを思う時に、わたしは抑えがたい問いに捉われることになる。わたしは、何のためにこの世に生まれてきたのだろうか。一人の人間として生き、死んでゆくそのことに、どのような意味があるのだろうか。
「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
まるで自分が死なないものであるかのように、純粋に遊び、純粋に喜ぶことができるということ、それが、青年期の幸福である。彼らは、自分たちが存在していることに意味を求めずにすむほどに幸せなのだ。ただ笑い、愛することが許されている時期を持った人はいわば、人でありながら人のものではないような生を、限られた期間の間だけ味わうことを許されたということなのだろう。
生きることの本当の意味は、自分のために生きることのうちにはない。自分ではないもののところに無条件で向かってゆくこと、自分ではない誰かのために自分自身の命を用いることのうちにこそ意味は存在するのだということを、誰もが無意識のうちにではあれ知っている。わたしたち自身は罪深く、堕落しているために、自分自身の命を正しく用いることができることは稀にしかないけれども、「わたしはある」が本来の「わたしはある」になることができるのは、本当はそのような時であるはずなのである。
人間が生きるのは、その瞬間瞬間を力の限り生きるためというだけではなく、死ぬ時に一人の人間として意味のある死を死ぬためでもあるのではないかと、最近では思う。その意味では、生きることの意味というのは、そのまま死ぬことの意味でもあるというのでなければならないのかもしれない。