イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在の真理へ

 
 論点:
 わたしにとって、わたし自身は唯一的な認識の主体に他ならないけれども、それでも別の側面から言えば、世界の中のいち存在者にすぎない。
 
 
 現代の人間にとっては、「世界はわたしの表象である」というテーゼは極めて馴染み深いものとなっており、それがほとんど唯一の行動原理であると考える人々もいる。わたしが感じ、味わうことがすべてであると考えるのならば、そこに一つの典型的なポストモダンの生が生きられることになるだろう。
 
 
 ポストモダンの生にとっては、人間がかつて政治と呼んでいた営みはもはや意味を持たない。他者とは、わたしの消費と享受の対象であるか、あるいはそれらを妨げる障害にすぎない。ただ経済だけが、わたしと世界をつなぐマテリアルな次元として、ヴァーチャルに還元されないリアルとしての意味を持つだろう(こうしてポストモダンの生にとっては、政治と統治の間の区別は、もはや何の重要性も持たないものとなる)。
 
 
 ところが、ポストモダンの人間の生も、かつての人間の生と同じように、死という出来事の猶予つきの必然性を決して免れているわけではない。そして、唯一的な主体であるはずのわたしにも予感されるのは、世界は、わたしの死という想像を超える出来事の後にもそのまま続いてゆくであろうという事実である。
 
 
 
 ポストモダン 政治 生 真理 存在の超絶
 
 
 
 わたしの死とともに世界も終わるであろうというのは、もはや古いものとなりつつあるSF的な空想である。
 
 
 しかし、ひとたび真剣に考えてみるならば、この空想が真でありえないことはわたしにも明らかであることは、言うまでもない。わたしはこれまでに何人かの、あるいは数多くの人間が死ぬのを見てきた。世界は、彼らの死とともに終わりはしなかった。わたしだけが例外であるというのは、あまりにも自己中心的な想定であるだろう。
 
 
 世界はわたしなしで存在したし、わたしが死んだ後にも続いてゆく。このことは、わたしの主観において理論的に証明できる物事には属さないけれども、それでも決して否定することのできない剥き出しの事実として、いかなる意識の明証をも必要としない、揺らぐことのない明証としてあるように思われる。そして、もしも真理というものがありうるのだとしたら、非常なようにも思われるけれども、これこそが否定することのできない真理なのではないだろうか。
 
 
 真理を存在の真理として考えるという道が、ここから開かれてくることになる。存在の真理を「存在の超絶」として捉えつつ、さらには本質の真理や命題の真理といった、すでに見てきた真理の別の次元との関連において考えるというのが、真理とは何かをめぐる今回の探求で筆者が試みてみたい企てである。まずはこの存在の真理なるものについて、その内実を今すこし詳しく探ってみなければならない。