イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「あるはある」

 
 論点:
 存在者が存在する。あるいは、その極点においてはもはや存在者がではなく、「存在が存在する」。
 
 
 あるものがある。存在者から存在者への連関とその総体としての世界は、わたしを超えて存在し続けてゆく。
 
 
 この「ある」の圧倒的な事実性は、わたしの思考を完全に超絶している。わたしの思考は「ある」に追いつくことができず、ましてや、「ある」を作り出すことはできない。むしろ、わたしは「ある」の途方もない広がりのなかでほんの一瞬だけ開かれる「今」、存在しなかったところから呼び出されるようにして存在している。
 
 
 そうなると、究極的にはもはやあるものが、ではなく、「あるがある」と言わざるをえないのではないか。あるがある、あるいは、あるということがある。存在と存在者の間には差異があることを踏まえつつ、それでも逆説的な表現によって「極点においてはもはや存在者が存在するのではなく、存在が存在する」と言うことへと促されるゆえんである。
 
 
 マルティン・ハイデッガーは『ヒューマニズムについて』の中で、この「存在が存在する」という言い回しは、目下のところは用いることを避けねばならないと注意を喚起している。
 
 
 彼がそのように言うのは、存在は存在者ではないという根本の点を取り逃がして、存在を存在者のように語ってしまうことのないようにするためであるが、この文脈において彼がパルメニデスの「あるはある(エスティン・ガル・エイナイ「ナゼナラ、存在ガ存在スル」)」に言及しつつ、あらゆる存在者は本来的には「存在する」のではないのかもしれない、と述べていることは意味深い。筆者は、上の指摘、すなわち、存在者を実体的なものとして取り扱わないという点に留意した上でならば、「存在が存在する」は問題とすべき事柄をこの上なく鋭く言い当てる表現として、そのように語らざるをえないこともあるのではないかと考えている。
 
 
 
ある 超絶 存在 ヒューマニズム マルティン・ハイデッガー エマニュエル・レヴィナス
 
 
 
 事は、ハイデッガーの場合だけに限られていない。ハイデッガーよりも後の哲学者でいうならば、彼の思考に対する根本的な異議申し立てを行ったエマニュエル・レヴィナスもまた、特定の存在者の存在ではなく、むしろ「あるということがある」ことについて語る文脈で「ある il y a」の経験について語っていた。「ある」に対する両者の態度の違いは対極をなしているにしても、哲学の営みが「あるものがある」を超えて、「あるがある」について語らざるをえないところにまで来ているというのは確かなようである。
 
 
 哲学の歴史は、ゆっくりとしか進まない。ある哲学者の提出した主張に対して本質的な応答がなされるまで、数十年、場合によっては百年以上の時間がかかることも珍しくはなく、本当の意味で哲学をするのであれば、過去二千五百年の対話と探求の歴史に連なる覚悟を決めなければならないだろう。筆者も、たとえわずかにではあれ事柄それ自体の究明に貢献することを願いつつ、「あるがある」という表現が指し示している事象について、さらに考察を進めてゆくこととしたい。