イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたし」は最も根源的なものではない

 
 論点:
 「ある」は、わたしをはるかに超えている。
 
 
 現代の人間にとっては、思考する主体としてのわたし以上に根源的なものはないように思われるかもしれない。「世界はわたしの表象である」は、情報技術の加速度的な発展によって自分が望む通りにコンテンツからコンテンツへと飛び回ることが可能になったこの時代においては、この上なくリアルなテーゼとして感じられるようになってきている。
 
 
 映像も音も、他者の動向でさえも、現代の人間は画面をタッチするだけで自分の意志のままに取り扱うことができる。このことは、私たち自身が思っているよりもはるかに決定的な仕方で、世界と自己に関する私たち自身の理解を規定しているのではないかと思われるのである。
 
 
 しかし、わたしなるものの存在は本当に根源的なのだろうか。わたしの存在は確かに、思考し、感覚するわたし自身にとっては最も身近に知られる。たとえそうであるとしても、わたしにとって最も身近なものが、事柄それ自体においても最も身近なものであるとは限らないのではないか。
 
 
 世界が「ある」ということ、また、それよりも遡って、そもそも「ある」ということがあることは、わたしを超えている。「ある」があるというこのことは、わたしよりも「先である」。「あるがある」は、わたしが生まれる前にも真理であったし、わたしが死んだ後にも真理であり続けるであろう。表象するわたしの見せかけの絶対性は「ある」の圧倒的な事実性に対して、いかなる特定の事実性よりも先にあるこの事実性に対しては、何もなすすべを持たないのではないだろうか。
 
 
 
ある 映像 音 哲学的思惟
 
 
 
 おそらく、「わたしはなぜわたしなのか」、あるいは「わたしは、なぜ他の誰でもないこの人間なのか」という問いは、哲学の問いとしては最も根源的なものではないのではないか。「なぜ『ない』のではなく、『ある』のか」、「問いを問うている当のわたし自身をも含めて、一体なぜ存在者は存在するのか」という問いは、上の問いに権利上先行するもののように思われるのである。
 
 
 わたしはある。しかし、わたしにとっては決定的かつ絶対的なものにも見えるわたしの「わたしはある」は、揺らぐことのない「あるはある」に対して、いわば遅れている。わたしが感じ、考え、話し始める時には、「ある」はわたしのいかなる能動的な総合よりも、受動的な総合にさえも先立って「働いてしまっている」。「ある」に対するわたしのこの遅れは、いかなる統覚の働きをもってしても取り消すことが不可能であるように思われる。
 
 
 哲学的思惟が「わたしは思考する」のうちで動かざるをえない以上、「わたしはある」に絶対的に先立つものに対して明晰な観念を持つというのは、ほとんど不可能にも近いことのように見える。しかし、哲学の最も根源的な務めは、思考がおのれ自身の明晰性を見失うこの地点において、限界を超えるようにして考え続けることのうちにあるのではないか。おそらくは、「あるはある」の「わたしはある」に対する絶対的な先行性を見失うことのない思考だけが、わたしという存在についても、その存在にふさわしい地位を見出すことができるだろう。