イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

眠りからの目覚めは……。

 
 論点:
 無ではなく、「ある」がある。
 
 
 私たちは完全な無というものを一度も経験したことがなく、気がついた時には、すでに無数の存在者たちからなる世界の中に投げ込まれていた。しかし、それでもなお私たちにとって「そもそも、何かがあるというのではなく、何もないということもありえた」という直観には、いわく否みがたいものがあるのは確かなのではないだろうか。
 
 
 もしも、「ある」のではなく無であり、何もなかったのであったなら、わたしもあなたも生まれてくることはなかったであろう。人間が生まれてくることはなく、星も宇宙もなく、世界なるものもなかったであろうということを、その仮定は意味している。
 
 
 人間の中には、存在よりも無を望んでいる人々もいることは確かだけれども、私たちが生きているこの現実においては「あるはある」のでなければならなかった。この決定は、いわば私たちが決して遡ることができないほどの昔に、思考にとって想像可能ないかなる過去よりも古い過去においてなされたものであると言えるのかもしれない。思考し、感覚するわたしはこの「決定」からははるかに遅れて、存在か無かという選択、そもそも世界は存在するべきか否かという選択に対しては一切の権利を剥奪された状態で、この世界のうちに到来する。
 
 
 
無 ある 決定 世界 眠り あるはある
 
 
 
 そのような事情を考える時、眠りからの目覚めという出来事には、哲学的に見て非常に意味深いものがあると言えるのではないだろうか。
 
 
 私たちはまるで生を始めから始めなおすように、毎朝目覚める。目覚める時には、目覚める前に流れていた時間のことはほとんど覚えていないけれども、私たちはまず始めに、「今はいつなのだろう」と自問する。
 
 
 わたしが眠っている間にも、世界には時間が流れていた。意識するわたしが無であったその間にも、「ある」のざわめきは決して止むことがなかったのであって、わたしが目覚めるということは、わたしが再びその「ある」の世界の方へ戻ってゆくということである。「戻ってゆく」というよりも、わたしは正確には世界のうちへと「呼び戻され」、引き戻される。意志するわたしは目覚めた後に初めて存在するようになるのであるから、そのように表現した方が事の成り行きに合致しているのではないだろうか。
 
 
 ここではまるで、眠りからの目覚めが、わたしの存在に対する「あるはある」の先行性をもう一度なぞり直すかのように、すべてが進行している。目覚めた後に日々の営みの中では再び忘れ去ってしまうとはいえ、私たちは毎朝、目覚めるたびに、わたしが生まれるよりも先に「ある」のざわめきが囁き続けられていたという事実を思い起こされていると言えるのかもしれない。