論点:
命題の真理の真理性は奥深いところで、存在の真理によって基礎づけられている。
たとえばわたしが野原で、「この野原には、一本の木が立っている」と口にするとする。
この野原には実際、一本の木が立っている。この言明は命題として見るならば、真であると言われることだろう。そして、この言明はなんということのない、極めて平凡な事実を述べたものにすぎないとわたしには感じられるかもしれない。
しかし、わたしが精神の眼を「ある」ということに向けてみるならばどうだろうか。
野原の中に聳えるようにして、一本の大きな木が立っている。時折吹いてくる風に、葉をつけた枝々が揺れている。近づいたわたしが見上げると、揺れる葉は真っ青な空の中で、聞き取れるか聞き取れないかというくらいの、かすかなざわめきを立てている。
木の「ある」ということが、わたしに告げられる。わたしに投げかけられる影、わたしが触れる黒ずんだ樹皮を通して、今わたしがいるこの野原に、確かにこの一本の木が存在しているということがわたしに知らされる。命題が妥当するという事実、命題がこの世界について真なるものごとを語るということは、本当は、何か心の底から驚かずにはいられないような出来事なのではないか。哲学者は、いかなる命題においても奥深いところで働いているこの平凡ではありえない次元に、たえずその眼差しを注いでいるのでなければならないだろう。
命題は意味を持ち、「野原には一本の木が立っている」の意味は、木を見ている人にも見ていない人にも共に知られる。しかし、この命題が真であることを本当の意味で知るのは、野原にいるわたしが自らの目で、あの青々とした一本の木が聳えているのを捉える時である。
真偽の次元には、意味の次元には還元されえない何ものかがあり、判断を下す行為には、意味のある言葉を発する以上のことが含まれているということ。トマス・アクィナスは『神学大全』第16問第2項においてこのことを「真理は『何であるか』を認識する知性のうちにはなく、結合し、分離する知性のうちにある」と表現している。判断は、「ある」の認識によって根拠づけられて初めて可能になるということだ。
私たちは日常の中で無数の判断を下しているけれども、その判断が「ある」の認識によって可能になっていることには気づかない。それは私たちがある謎めいた必然によって、私たち自身の生を形づくっている真に驚嘆すべきものに眼差しを向けることから遠ざけられているからにほかならない。
哲学をするとは有能な仕方で判断を次々と下してゆくことのうちによりもむしろ、自らの判断する働きそのものに立ち帰って、判断を下している自分が本当は何をしているのかを深く知ることのうちにある。すべてのことが「ある」によって可能になっているにも関わらず、私たち自身は「ある」に本当の意味でいないという驚くべき事実にわたしが気づくのは、こうした立ち帰りのただ中においてにほかならないと言えるだろう。