イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

開示性としての真理概念

 
 論点:
 命題が世界について真なることを語るという事実のうちには、何か真に驚嘆すべきものがある。
 
 
 いかなる命題においても、それが真なる命題である限り、そこには「ある」の受け入れがある(前回の記事参照)。そうなると、同じ命題の形をしていても、真なる命題と偽なる命題の間には、ある種の非対称性が存在するということにはならないだろうか。
 
 
 青い空の下で「この野原には雨が降っている」とつぶやくとしても、その言葉は何も明らかにはしない。野原には雨は降っていないからだ。けれども、「野原には穏やかな風が吹いている」とわたしが口にして、実際にそう呼ぶのにふさわしい風がわたしの肩を通り抜けてゆくのを感じているとのだとしたら、その言葉は、言葉にしかできない仕方で今この瞬間に起こっていることを明るみにもたらしていると言えるのではないだろうか。
 
 
 偽なる命題は世界を隠蔽してしまうが、真なる命題は世界について何事かを発見する。両者は言葉として意味を持つという点では同じでも、その働きには大きな違いがある。人間には言葉で戯れるという広大な領域が開けているために見えにくくなっているけれども、言葉が何かを、あるいは何事かを発見させる働きをもっているということは、言葉にとって根源的なことである。マルティン・ハイデッガーは『存在と時間』において、この発見するという契機のうちに言葉の、そして、真理の本質そのものがあると考えた。
 
 
 
ある マルティン・ハイデッガー 存在と時間 真理 アレーテイア アリストテレス 覆い 現象学
 
 
 
 「言明が真であるとは、言明が存在者をその存在者自身にそくして覆いをとって発見していることを意味する。[…]言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。」
 
 
 『存在と時間』第44節aの一節である。ハイデッガーはさらにこの言明の真理を現存在の開示性のもとに置き直し、真理そのものを開示性として規定する。かくして、「開示性は、現存在の本質にぞくする存在のしかたなのである。真理が『与えられている』のは、ただ現存在が存在しているかぎりにおいてであり、またそのあいだのみである」(第44節c)。
 
 
 ハイデッガーはこの「覆いをとって発見する」ことこそがアレーテイアというギリシア語の原義であると考え、その後もこの語の示すものに付き従うようにして思索し続けた。彼によるならば、「ものと知性との一致」というアリストテレス以来の伝統的な真理観は、この根源的な真理に対しては派生的なものにすぎないということになる。
 
 
 発見すること、あるいは開示することに改めてことさらに目を向けることのうちには、疑いえない哲学的な意義があったことは事実である。覆いをとって発見するというあり方は、人間が真理に関わるあり方として根源的なものなのであって、おそらくは、現象学という名のもとに始められた探求の最も核心的な部分もまた、この契機にこそ関わっていたのであろうと思われる。
 
 
 しかし、開示性としての真理概念は、本当に真理なるものの本質を捉えているのだろうか。むしろこの概念は真理について、何か決定的なところで事柄を取り逃がしてしまう恐れがあるのではないか。以下においては、「覆いをとって発見すること」としての真理観に対して疑義を提出しつつ、より根源的な仕方で真理なるものを捉えてみることができるよう試みてみることとしたい。