イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ハイデッガーへの疑義

 
 論点:
 真理は、第一義的には「覆いをとって発見すること」とは別のところで考えられる必要があるのではないか。
 
 
 根本的なところから考え直してみることにしよう。ハイデッガーが『存在と時間』において主張したように、真理は本当に、発見されるからこそ真理となるのだろうか。
 
 
 むしろ、真理は人間がそれを発見しようとしまいと、真理であり続けるのではないか。アウグスティヌスも言うように、地中深くに存在する一個の石は、誰にも見られていないからといって存在しなくなるというわけではないであろう。ものや他者、そして世界は、それを認識する主体がたとえ存在しなくとも、依然として存在し続けるのではないだろうか。
 
 
 あるいは、自然法則のことを考えてみよう。現在の物理学は、この宇宙において働く四つの力を統合して全宇宙の物理現象を一元的に解き明かすことのできる「統一理論」の完成を目指して進んでいる。というよりも、自然科学の探求の本質を考えるならば、カントもそう考えていたように、自然科学はもともと広い意味での「究極の統一理論」を目指して進められてゆくものであると言えるであろう。
 
 
 しかし、ここで自然科学的探求の枠組みをあえて超えて考えてみるならば、どうだろうか。この宇宙はもともとある何らかの究極的な自然法則によって、斉一的に「統制」されているのではないか。この「統制」という言葉で指し示されている事態をどのように考えるのかという点についてはさまざまな立場がありうるであろうとはいえ、「統一理論」そのものはある意味では人間とは隔絶したところで既に出来上がっていて、その法則によって宇宙は宇宙であり続けているのではないかという直観は、哲学的に見て素朴なものに思われることは確かであるとはいえ、根底においては否定しがたいもののように思われるのである。
 
 
 
アウグスティヌス 自然法則 物理学 統一理論 カント 哲学
 
 
 
 哲学者たちがどう考えようとも、科学者たちは実際に、「究極の統一理論が存在するはずだ」という見通しに基づいて探究を進めている。この見通しに基づいて、電磁気力と弱い力を統合する理論は既に完成されているのであって、科学者たちはこれからも、さらなる統合を目指して実験と理論構成を進めてゆくことだろう。
 
 
 科学者たちはあくまでも既に実際に発見されたものと現実に完成された理論、そして、現在探求のただ中にある領域に自分の仕事の範囲を限定することをその職分としているけれども、筆者はここでは哲学者として、あえて考えてみることにしたい。この宇宙は人間によって発見されていない今のこの時点においても、未知の「統一理論」によって記述される自然法則によって実際に統制されており、人間のなすべきことは、いわばそれを後から発見することにすぎないのではないか。この点において、「真理とは、覆いをとって発見することである」とするハイデッガーの真理観は、おそらくは根本のところで修正を受ける必要があるのではないか。
 
 
 「ニュートンの諸法則も矛盾律も、一般にあらゆる真理が真であるのは、ひたすら現存在が存在しているあいだだけなのだ。現存在がそもそも存在していなかったそのまえには、また現存在がそもそももはや存在していないだろうそのあとには、どのような真理も存在していなかったし、また存在しないことだろう。」
 
 
 『存在と時間』第44節cにおける、ハイデッガーの言葉である。しかし、物理法則も矛盾律も、現存在としての人間が存在していようといまいと、依然として真であり続けるといった方が事柄の実情を言い当てているのではないだろうか。一般的なものの見方からあえて外れることによって上のように主張したハイデッガーには彼自身の狙いがあったものと思われるけれども、実はこのような発想はハイデッガーに限ったことではなく、真理を「覆いをとって発見すること」として規定することは、恐らくはこれまでの哲学自身の運命であり続けてきたのであって、これより後はその間の事情についても瞥見しつつ、真理の本質をこれとは別のところに探ってみることとしたい。