イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

公共世界と近さの概念

 
 探求の出発点:
 わたしが本当の意味で多くを知ることができるのは、わたしが深く関わることになる他者だけである。
 
 
 学校や職場などといった公共世界のうちでは、人間は、自分自身の実存を多かれ少なかれ特定の様態へと切り詰めるのでなければ生きてゆくことができない。公共世界とはその本質から言って「みなのもの」なのであって、そこにおいて、言葉や行動は必然的に最大公約数的なものたらざるをえないのである。
 
 
 公共世界における人間はしたがって、程度の差はあれ必ず、多数の人々と共有することができる「キャラクター」(コミュニケーションの複雑さと繊細さを意図的に低減させた、戯画的な言動パターンの集合)のうちに自己自身を物化している。キャラクターなどというものはつまらないものだと誰もが知りながら、それでも誰もが何らかのキャラクターを演じずにはいられないというのは、公共的な空間によってもたらされる必然性に基づくことである。
 
 
 わたしが公共世界のうちにいる彼あるいは彼女について知りうることはそれゆえに、彼あるいは彼女の人格性のほんの一部分にすぎないことは言うまでもないだろう。プレイヤーとしての彼あるいは彼女は、キャラクターとして提示される物化されたイメージのうちに姿を消している。他者について知るという可能性は、公共世界においては事柄の本質から言って制限されたものであらざるをえないのである。
 
 
 
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 わたしが他者について、その他者の「何であるか(誰であるか)」を深く知る可能性はしたがって、彼あるいは彼女がもはや「彼」や「彼女」ではなく、「あなた」となるような近さの関係においてしかありえないのではないだろうか。
 
 
 親友や恋人、そして、師と弟子といった関係は、ひそやかな親密さのうちで形づくられる。公共の世界から遠ざかったところ、もはや「みなのもの」はなく、あなたとわたしのものしか残されていない近さのうちではじめて、わたしがあなたを知る可能性が開かれる。近さとは単なる物理的な関係ではなく、他者に関する価値性そのものを可能にするような、間-実存的な関係性の規定なのである。
 
 
 近さが、わたしがあなたに対してわたし自身を提示し、あなたがわたしに対してあなた自身を明かす可能性を準備する。おそらく、文学の本質的な務めの一つとは、文学者自身が生きている時代のうちで、一体どのような近さの関係が残されているのかを踏査し、ありうべき近さの関係を見出すことにほかならないのではないか。哲学もまた、概念によってこの近さの関係を言葉にもたらそうと試みる。密やかなものでしかありえない関係を公共の言葉にもたらすという意味では、それは文学と同じように逆説的な営みではあるけれども、哲学や文学の闘いとは、公共的ではありえないものを公共の世界に投げかけ続けることのうちにこそあるのではないかと筆者には思われるのである。