イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

二人でいることの病い

 
 次の論点に進む前に、一点付け加えておきたいことがある。
 
 
 論点:
 哲学の営みは、公共世界からの遠ざかりと共にしかなされえないのではないだろうか。
 
 
 公共世界では政治・経済・社会などといったさまざまな領域について、常に多くのことが論じられている。しかし、そうした問題に対して「哲学はこう考える」風の多少なりとも気の利いた答えを提供することが哲学の仕事であると考えるならば、それは哲学をほとんどコメンテーターの仕事と混同することに等しいのではないか。
 
 
 むしろ、哲学は公共世界において決して話されないこと、話されないにも関わらず、思考されるべきものであることを決してやめないものについてこそ語り続けるべきなのではないか。公共世界は、人間性の問題を最大公約数的な仕方でしか提起することができないし、ある意味ではそのことが、公共世界の言論空間にもともと求められていることでもある。哲学とはその本質から言って非-言論的な言語実践であり、閑却され続けているものへとたえず回帰してゆこうとする不断の試みなのではないだろうか。
 
 
 筆者にとって、回帰するべきその事柄は、年月が経つとともに次第に一つの根本事象へと収斂するようになってきている。「存在」という言葉で指し示されるその事象こそ、公共世界において、そして、哲学の世界においてさえも忘却の淵へ追いやられているにも関わらず、人間がたえずそこへと立ち戻ってゆくべきものなのではないか。そして、筆者にはこの事柄は、他者の問題圏において、わたしをあなたをめぐる対面の関係においてこそ追い求められるべきものであるように、筆者には思われるのである。
 
 
 
哲学 公共世界 ソクラテス ジャック・ラカン 二人でいることの病い 人間性
 
 
 
 恐らくは、哲学の語りなるものそれ自体が、その本質から言って「万人に向けられた公共的なもの」ではありえないのではないだろうか。哲学の営みは、ある親密さにおける語りとしてしか、わたしとあなたの間で行われる打ち明け話のようなものとしてしか遂行されえないのではないか。
 
 
 本当の意味で大切なことは、近さの関係の中でしか語られえない。沈黙せざるをえないものについてかろうじて語りうるのは、語りがたいものをさえも語ることへと導かれるような対面の関係において、若者が「そんなことを言ったら、連中はあなたを放ってはおきませんよ、ソクラテス」と思わず口にする、あの親密さにおいてのみなのではないだろうか。
 
 
 哲学は公共世界が前提とする最大公約数的な健全さよりも、「二人でいることの病い」(ジャック・ラカン)の側に立つのでなければならない。病いである以上、そこには言うまでもなく危険も挫折もある。しかし、人間の人間性の根幹は逆説的にも、病いを病いとして生き抜いた人間たちにしか明かされえないものであるように、筆者には思われるのである。