イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者認識の困難と、音楽の例

 
 論点:
 他者について知ろうとする際には、絶えず前面に表れ出ようとしてくる自分自身の価値評価の働きに、意識して抗い続けなければならない。
 
 
 ある人を、ある人自身がそうある通りの姿において知ろうとするならば、わたしは、その人についてわたし自身の観点から評価を下すことを差し控えなければならない。
 
 
 一人の人物に対する評価が複数の人間のあいだで完全に一致することは、ほとんどない。その人物は、ある人々にとっては好ましく、別の人々にとってはそうではないというのが普通であって、後者の場合には、ひとは大抵はそれ以上、その人物のことを知ろうとは努めないものである。
 
 
 生理的な反応というのはそれを感じる人自身にとっては非常に明晰で議論の余地のないものではあるけれども、知るという側面から見ると、役に立つというよりもはるかに危険であるということは確かである。生理的な反応は、その反応を生み出したその人自身よりもむしろ、その反応を感じているわたし自身の人間性について多くを教える。その意味では、それは自分自身についての知を深めてゆく役には立つ可能性が高いとはいえ、他者を知るためには妨げになる恐れの方がはるかに大きいのである。
  
 
 
他者 音楽
 
 
 
 そう考えてみると、私たちが日常生活の中で隣人たちについて行う判断のほとんどは、その隣人を知るよりも、その判断を下しているわたし自身にとってその人が快をもたらすか否かという点に終始しているのではないかと思われてくる。人間は認識するよりも、賞賛し、非難したがる存在である。この点については、生物としての必要性が、認識に対しては不利な条件として働くと言えるのかもしれない。
 
 
 他者について知ることの困難が極端な形で現れてくる範例的な場面は、他者が好んでいる音楽を聴くという体験である。
 
 
 馴染んでいないジャンルの曲を聴くのは、また、自分自身の美学的趣味とは合わない曲を最後まで聴くのは、なんと難しいことだろう!その違和感、もっと言えば不快感はほとんど耐えがたいものなのであって、私たちはしばしば、口直しのために馴染みの曲を聴いて神経をなだめなければならないほどである。
 
 
 音楽ほど他者について多くを教えてくれるものもないけれども(何しろ、そこで問題になっているのは他者の価値観そのものであり、享楽ですらある)、音楽ほど取り扱いにくいものもなかなかない(音楽を勧めるという体験は、大抵は物別れに終わるものである)。自分の好きな人の勧めてくれた音楽を聴いて辟易したあげくに、それを聴かなかったことにしたという体験は誰にでもあるのではないだろうか。音楽は人を人をつなげるとよく言われるけれども、その疑いようもなく偉大なその力には一定の留保をつけることもまた必要なのであって、音楽は人々をこの上なく強固に結びつける一方で、その他の人々を全速力で逃げ出させるのである。こうしたことはすべて、私たち人間が普遍的な愛の王国に辿りつくまでに歩まなければならない距離の遠さを思い起こさせるのに十分であると言えるだろう。