イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

友愛の公理としての〈同〉

 
 論点:
 近さの関係は、〈同〉の原理によって作り出される。
 
 
 口当たりのよい現代のクリシェに従うのならば「お互いの違いを知り合うことほど楽しいことはない」となるのかもしれないけれども、社交の原理としては無難であるとはいえ、それは親しい友を作り出すものではない。〈同〉こそが近さを作り出すというのが公理なのであって、この点は決して動かすことができないのである。
 
 
 友情の原理が〈同〉にあることは、古代人たちにとっては極めて自明な事実であった。アリストテレスによれば、友とは「もう一人の自己」(ヘテロス・アウトス)である。現代人の強迫観念となっているポリティカリー・コレクトネスあるいはコンプライアンスの次元にほとんど注意を払わなかった古代人たちは、友情の甘美さについては恐らくわれわれよりもはるかに多くを知っていたけれども、その分、〈同〉に還元することのできない〈他〉を抱え持ったまま、いかにして親しさの関係を築き、存続させることが可能なのかという問いを問うことは、われわれに持ち越されたのである。
 
 
 ともあれ、近さは同じであることに基づく。この点、SNSの分化という現象は人間の自然本性を如実に反映するものとなっていて、SNSを特徴づけるのは何よりもまず、クラスタ化であり、「住み分け」である。異他的なものとの交流とは、いわば後から身につけられる一種の徳のごときものなのであって、友情とは基本的に、自分と相手とが、口に出すことがなくとも通じ合っているという気楽さにもとづくものなのである。
 
 
 
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 おそらく、哲学の営みについてもこのことは当てはまるのであって、哲学の伝統は善かれ悪しかれ、哲学史、すなわち、これまで哲学的に考えるということを実践してきた人々の歴史を共有することに基づいている。そして、この共有、この〈同〉の形成によるのでなければ、〈同〉の外部にとどまり続ける〈他〉を思考しようと試みるいかなる「他者の哲学」も、はかばかしい成果を挙げることは期待できないのではないだろうか。
 
 
 〈同〉とは言っても、哲学に要求される〈同〉は他の多くの営みの場合と同じく、先人たちの積み上げてきたものに対する敬意と理解にもとづいて形成される〈同〉である。哲学の論考は、事実においてではなく権利において「われわれ哲学者が、今のこの時代に考えるべき事柄」を問題とするのでなければならない。哲学の歴史を受け止めることなしには、この事柄の内実を確定することが不可能であることは言うまでもない。漠然とした価値観や時代性にもとづく〈同〉ではなく、次の時代にも引き継がれ、また権利上は永遠に論じられるべき問題を提起しうるフォーマットとしての〈同〉へと到達することが、哲学者が向き合わなければならない挑戦であると言えるだろう。
 
 
 後半は少し話が逸れてしまったけれども、友愛において働く〈同〉の原理については、古代人たちの哲学がすでに多くを語ったにも関わらず、さらなる掘り下げを行う余地がなおも残されているのではないだろうか。レヴィナスドゥルーズといった前世代の哲学者たちは、各々の流儀と信念に従って〈同〉の外部としての〈他〉を見出すことに力を注いだけれども、われわれには彼らの成果を踏まえた上で、異他的であるはずの他者と何らかの〈同〉を形成することが可能であるとすれば、その〈同〉はいかにして思考されるべきなのかを問うという課題が残されているように思われるのである。