イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ハイキングと強化合宿、あるいは運命の巡り合わせについて

 
 他者問題にアプローチするために、もう少し準備的な考察を続けることとしたい。
 
 
 論点:
 〈同〉がない場合には、〈同〉を新たに作り出してしまうことで、親しさが生まれることも往々にしてある。
 
 
 要するに、友人だから一緒にハイキングに行くのではなく、一緒にハイキングに行くから友人になることもある、ということである。この点、単に何かの経験を共にするだけではなく、何かに共に勝利したり、共に何かを乗り越えたりする経験は、人と人との間に短い期間のうちに友情を作り出してしまうことも稀ではないようである。
 
 
 ディズニーのアニメ映画『ムーラン』の挿入歌「闘志を燃やせ」は、この論点に関してこれ以上ないというくらいの例を提供している(この部分だけならば、YouTubeで鑑賞可能)。このブログの筆者自身は、普段は筋金入りの非-体育会系であるけれども、この曲によって、体育会系的なものの論理そのものにはある種の真理性が含まれてもいることを納得させられてしまった。あまり突き詰めすぎると危ない方向に行ってしまうことを忘れてはならないとはいえ、人間には、ど根性に基づく努力というスポ根的な側面も必要であるという事実は否定できないように思われる(例:哲学においても、たとえばハイデッガーのテキストの同じ箇所を百回立て続けに聞きまくるといったような狂気に満ちた訓練は、学びのプログラムとしては大変に有効であろう)。
 
 
 強化合宿や合同訓練は、短期間のうちに友情を作り出す。それほど極端な例でなくとも、たとえばツアー旅行などを通して生まれる友愛の情はちょっと他には例のないもので、人生に特別な味わいを加えてくれるものであると言えるだろう。
 
 
 
他者 ムーラン 闘志を燃やせ 体育会系 ハイデッガー 哲学 友愛 同 ムーンライト伝説
 
 
 
 〈同〉を作り出すことによって親しさあるいは社会性を生むというこの方法は、人間の営みのいたるところで実践されている。しかし、この方法にも一定の限界があることは否定できないのであって、この方法では、親しさを唯一無比の親しさに、魂の友を生むほどの深度にまで至らせることはできないのである。
 
 
 究極の友情や愛情は、完全な〈同〉に、魂と魂の欠けるところのない一致にもとづく。こうしたものは、それこそ運命の巡り合わせによってでもなければ実現しえないのであって、後から〈同〉を作り出すという知恵も、この神秘の中の神秘の力には及ぶべくもない。魂と魂が呼び合うというか、親友の中の親友あるいは『ムーンライト伝説』というか、とにかく、こうした人知の範囲を超えて働くようにみえる親和力に関しては、人間としてはただ運命の予想を超えた到来を待つほかないようである。
 
 
 運命というのは人間の理解を拒むところがあるので哲学ではなかなか扱いづらいけれども、それでもこのように呼ぶことしかできないような何かが私たちの人生において働いているように見えるというのも、容易には否定しがたい事実であると言えるのではないか。〈同〉を意図して作り出すというところから、意図せざる仕方で準備される〈同〉という地点に至ったところで、今回の記事を締めくくることとしたい。