イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

モラリストと不可知論

 
 論点:
 人間関係には必ずどこかの時点で、〈同〉の原理が、それのみでは十分ではなくなるような瞬間が到来する。
 
 
 誰もが知っているように、親しくなるというのはある意味では危険なことでもあって、親しくなってゆく人間同士の間では、距離も縮まってゆく分、次第に遠慮もなくなってゆく。近さは相手に対して自分自身をさらけ出すことを可能にするけれども、そのことは、良い意味でも悪い意味でも当てはまるのである。
 
 
 この点、「親しき中にも礼儀あり」という古くからの諺を守ることは、誰にとっても難しいことのようである。関係性がある程度以上近づいてしまうと、公共世界の中で働いている礼儀正しさのコードを用いることはどんどん困難になってゆく。社交で「うまくやってゆく」ことと、近しい関係の中での衝突に「真摯に向き合う」ことは、その本性からいって互いに異なる行為であると言えるだろう。
 
 
 したがって人間には、そもそも近さの関係を築くことを避けるという場合も往々にしてある。すなわち、現在の時点において大きな問題が起こっているわけではないにしても、やがて起こるかもしれない面倒事を前もって避けるために、それ以上近づくことをしないというケースである。人間不信あるいは人間嫌悪の度合いが深まれば深まるほど、こうした行動を取る可能性が高まってゆくことは言うまでもない。
 
 
 
 同 公共世界 キャラクター パーソナリティー モラリスト 不可知論
 
 
 
 しかしここで私たちは、近さの関係について考える上では重要な論点に行き当たる。それは、人間には、近さの関係を一度相手と築いてみるのでなければ、その関係がどのようなものであるかどうかもわからないという人間学的事実である。
 
 
 公共世界において提示される「キャラクター」あるいは社交上の人格は、その人自身のパーソナリティを一定程度まで反映するものであるにしても、あくまでも表面的なものにすぎない。内面性を隠している、あるいは表面に出せない場合もあるだろうし、そうでなくとも、社交においては誰もが多かれ少なかれ素の状態よりも「お行儀よくふるまっている」ものである。かくいう筆者も、哲学のせいか、もろもろの物事に対する考え方が恐らくは年月を経るとともにますます極端な方向に向かいつつあるので、これからの人生においては、要所要所においてまともなふりをして生きる必要性があることを日々痛感させられている次第である。
 
 
 ともあれ、親しくなってゆく相手がどのような人間であるか、また、その相手に対して自分がどのようにふるまうことになるかは、親しくなってみるまではわからない。だからこそ、人間について多くを知っている人ほど、隣人たちに関する認識については不可知論的な立場を強固に堅持しているものと思われる。人間を知ることの限界を受け入れ、知らないものを知らないままにとどめておけるようになったら、モラリストとしてはようやく初心の域を脱したということなのかもしれない。