イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

運命について

 
 論点:
 人と人との出会いにはすべからく、単なる偶然以上のものに基づいているのではないかと言わせるような何物かが存在する。
 
 
 おそらく哲学の言葉はその本性から言って、学的な探求の言葉と、その探求の間にときおり漏らされる感慨の表明の双方から成り立っている。前者がなければひとは遠くまで行けないであろうが、後者がなければひとは生に対して不誠実であるとの誹りは免れないであろうし、私たちの生には、後者の範囲内でしか語ることのできないような物事も存在している。パスカルはいみじくも、哲学を虚仮にすることこそが真に哲学することであると語っていた。本物の哲学のうちにはいつでも、学問そのものの根源を問いながら、同時に、学問的な営みの領分を越え出てしまうような何かがある。
 
 
 私たちが生涯のそれぞれの時期に出会う人々はある意味で、その時期の私たち自身でもある。わたしがかつてあなたに出会ったのは、「わたしとは誰か」という問いに対する答えの手がかりが、わたし自身ではなくあなたのうちにのみ存在していたからなのではなかったか。私たち人間は、互いが互いに対して遣わされる使者のようなものなのではないか。人間が出会う他者たちの一人一人はおそらく、彼あるいは彼女が知るべきことを知るために必要な何らかの伝言を携えて、その人のもとにやって来るのだろう(homo viatorとしての人間)。
 
 
 
哲学 パスカル わたしとは誰か homo viator 運命 コナトゥス 形而上学 自己中心性 閉鎖性の外部
 
 
 
 あの人はかつて、決して盗まれることのない宝物のような日々を過ごした後に、わたしから去っていった。おそらくはあの人にもわたしと同じように、あの人自身が問わなければならない問いがあって、そのことがあの人をわたしから引き離したのだろう。
 
 
 誰もが知っているように、運命には残酷にも見えるところがあって、運命は時に、私たち自身の感傷や望みに対して一切容赦することなく、おのれのなすべきことを行うことがある。人間の生はおそらく、人間自身の望みに従って進んではならないのだろう。人がためらうところで躊躇することなしに物事を成し遂げること、何よりもそのことが必要だからこそ、断固としてそのことを実行すること。おそらくはこうしたことのうちにこそ、神が神であるという事実が、最も深い仕方で示される。
 
 
 「あなたは誰であるのか」という問いは、ひとが世界には「わたしとは誰か」という問いの探求よりも深いものがあると知った後に、はじめて問うことになる問いである。「わたしはこれまであなたを追っているようでいて、本当はわたし自身をしか追っていなかったのではなかったか。」あなたをめぐる形而上学の問いは、コナトゥスによって運命づけられた宿命的な自己中心性のうちで、この閉鎖性の外部をかろうじて望み見ようとする眼差しに対してはじめて開かれるもののように思われる。