イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

あなたをめぐる形而上学

 
 論点:
 人間として生きてゆくとは「あなたは誰であるのか」という、他者の問いの問うことへの準備を少しずつ整えてゆくことである。
 
 
 コナトゥスに由来する自己中心性は生の原理そのものであるため、人間はある意味で、その生涯の終わりまで「わたしとは誰か」という問いの探求を続けざるをえない。しかし、その探求のただ中で、それとは違う問いが次第に人の心の中に浮かび上がってくる。
 
 
 わたしが生きることの意味はおそらく、わたしが出会う他者たちと結ぶ関係のうちにしか見出されることがない。
 
 
 トマス・アクィナスは人間を社会的動物として規定したけれども、おそらくはこの「社会的」という規定を、人間の実存の最も深い領域にまで浸透しているものとして考える必要があるだろう。孤独を選択したとき、人間の精神は、そのことによって自らを死に追いやってゆく。人間が魂のうちに抱え持っている空洞、いやむしろ、人間存在自身がそれでしかないところの空洞は、彼あるいは彼女が出会う他者たちによって満たされるほかないのである。
 
 
 従って、哲学には「わたしとは誰か」の後に「あなたは誰であるのか」と問う必然性が生まれてくるということにならざるをえないのではないか。後者の問いはおそらく前者の問いを経由することがなければ立てられることはないけれども、前者に決して還元されることのない領域を指し示している。エマニュエル・レヴィナスによってはじめてそれとして探求されたこの領域は、哲学にとって、いまだ未知のものであり続けていると言ってよいのではないだろうか。
 
 
 
コナトゥス わたしとは誰か トマス・アクィナス 社会的 実存 エマニュエル・レヴィナス 形而上学
 
 
 
 「あなた」は決して、「わたし」の領野には還元されない。だからこそ、「あなたは誰であるのか」という問いに対する答えは、あなたを「もう一人の自己」としてのみ捉えるような〈同〉の思考によっては、決して見出されることがないだろう。
 
 
 けれども逆に、わたしが他者であるあなたについて知ることは何一つないという見方が常識にも、私たち自身の直観にも反するものであることは言うまでもない。わたしは近さの関係を結んでいる他者について、少なくとも何事かを知りうるし、現に知っているはずである。しかし、その知が知であるということは、どのようにして保証されるのだろうか、あるいは、そもそも保証されるのだろうか。他者について、不可知以外のいかなる知の可能性がありうるのだろうか。
 
 
 私たちはこうして、他者をめぐる形而上学の問題圏に、これまでよりも根源的なしかたで入り込むことになる。それはもはや鏡の原理を通しての探求ではなく、鏡を越えたところにいるはずのあなた自身をめぐる探求である。存在者である限りの存在者を問い尋ねる探求を形而上学と呼ぶとするならば、他者であるあなたをあなた自身がそうある通りの姿において捉えようとする探求を「あなたをめぐる形而上学」と呼ぶことは、事柄の本性からしてそれほど不適切ではないものと思われる。