イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者の超絶へ

 
 論点:
 わたしには、他者であるあなたが見、聞き、感じていることを、直接に知ることはできない。
 
 
 他者の問題について考える上では、この論点は揺るがすことのできない不動のものであると言えそうである。簡潔に言い換えるなら、わたしには、他者であるあなたの「心を読む」ことはできない、ということである。
 
 
 この論点については、『ヘブル人への手紙』の次の一節を引いておくことにしたい。この一節は筆者には、純粋に哲学的な見地から言っても重要な示唆を含んでいるもののように思われるのである。
 
 
 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(13章2節)
 
 
 ここで言う「ある人たち」の例としては、たとえば『創世記』18章などを挙げることができるけれども、ここで語られているのは、他者の不可知性の認識と一体をなす歓待の掟であるとも言うことができそうである。
 
 
 私たち人間は、たとえ今向き合っている他者が天使や神であるとしても、そのことを知ることはできない。他者であるあなたは確かに、わたしと同じ人間の姿をとってわたしのもとに現れ、わたしに語りかけ、何かを懇願している。しかし、唯一的な認識の主体であるわたしには他者であるあなたがどこから来て、どこから遣わされているのか、決して知ることができないのである。
 
 
 他者がまとっている人間の姿形は、〈同〉の原理あるいは移入による構成によって、避けようもなくわたしに「わたしがそう思う限りにおけるあなた」の像を結ばせる。しかし、他者であるあなたには、わたしの思考には決して還元されえないものがあると言わざるをえないのではないか。
 
 
 
ヘブル人への手紙 創世記 不可知 同 モラリスト 天使
   
 
 人間に関する知をいくら深めていったとしても、わたしをあなたから隔てるこの踏み越え不可能な遠さを解消することはできない。いかなるモラリストであろうと、「あなたは今、痛みを感じているのか」という問いを発する義務を免れることはできないのである。どれほど近しい間柄になったとしても、人間には、「あなたは今、わたしと同じことを感じているのだろうか」と案じる必要性がいつまでも残り続けるのではないだろうか。
 
 
 自分のもとを訪れた旅人は天使かもしれないと指摘する先ほどの『ヘブル人への手紙』の一節は、現代を生きている私たちの目からすると大仰なもののようにも思われる。
 
 
 しかし、人間と人間との間を隔てている距離は、本当は人間と天使の間にある距離ほどにも遠いのではないか。他者であるあなたは、わたしと近いところにいるようでいて、その実は深いところでわたしのあらゆる思考を絶しているのだとしたら、どうだろう。他者を超絶として思考する道が、ここから開かれることになる。他者の存在を問うことはある意味で、この世界の外にいる誰かに向かって語りかけ、その声を聞きとろうと耳を澄ますような敬虔を必要としているもののように思われるのである。