イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

究極的孤独の概念について

 
 論点:
 原初的承認の次元も機能しない時、人間は、究極的孤独という深淵に向き合うことになる。
 
 
 公共世界、すなわち、同胞であるはずの人間たちが形づくる世界の中では生きてゆくことができなくなった人間にとっては、「救い手である誰か」によって承認してもらうことが最後の生存手段となる。それというのも、人間とは、他者によって「あなたは人間である」と認められることによって、はじめて生きてゆくことができる存在であるからに他ならない。
 
 
 したがって、この原初的承認の次元すらも機能しなくなる時には、人間は、自分自身が人間であるのかどうかすらも分からなくなるという極限の状態に追い込まれることになる。締め出された人間、いわば、人間たちの世界から追放されてしまった人間が向き合うことになるのは、究極的孤独とでも呼ぶほかない実存の深淵である。
 
 
 ここでは究極的孤独という語を、もはや自己自身を世界のうちへと繋ぎとめてくれるいかなる他者も存在しないような実存の危機と解することとしたい。この語を人間経験の極限状況を表す概念として練り上げるにあたって、筆者がここで喚起しておきたい文脈は二つある。
 
 
 
公共世界 原初的承認 ジョルジョ・アガンベン ホモ・サケル リカルドゥス ドゥンス・スコトゥス 究極的孤独 ペルソナ論
 
 
 
 一つ目は、現代イタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンが近年完成させた「ホモ・サケル」プロジェクトである。
 
 
 アガンベンが同プロジェクト最初の著作『ホモ・サケルⅠ』において探求したのは主に言って、主権権力の作動様態との関係における「締め出された人間=ホモ・サケル」の規定だったのであって、このことは、彼の仕事の最も大きな成果が政治哲学のカテゴリーの根本的な見直しのうちにあったことに対応している。もっとも、彼自身の関心はもともとそれよりも広いところにあり、そのことはプロジェクトの進行の過程においてますます明らかになっていったけれども、筆者は「ホモ・サケル」という形象によって提起された人間存在に関する問いかけに、アガンベンとは異なる方面からアプローチしてみたいのである。
 
 
 もう一つの文脈は、時代はこれより幾分か遡ることになるが、中世ヨーロッパの神学と哲学の伝統である。
 
 
 「究極的孤独 ultima solitudo」という語はもともと、12世紀の神学者であるリカルドゥスによって、その後にはドゥンス・スコトゥスによっても用いられていたものである。近代に入ってから哲学者たちの視界から消えていったペルソナ論の系譜は、おそらくは人間存在の関係論的な側面に対する大いなる視野の欠損をもたらしたと思われるけれども、筆者はこの語を再び取り上げなおすことによって、人間の実存の深奥を問う一つの手がかりとしたいのである。
 
 
 筆者は哲学史の観点から見た場合のこの時代を、およそ哲学の営みそれ自体が一度すべて燃え尽きた後のような、廃墟の時代として理解している。恐らくは、先に挙げたアガンベンもこれとはそれほど異なる歴史観を抱いているわけではないものと思われるが、私たちは、語られるべきものがすべて語り尽くされ、思考の営みそのものが消尽し果てたかにみえる灰塵の中で手探りするようにして、遺棄された残骸の中から哲学をふたたび築き上げるべく試みてゆかなければならない。