イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「あたかも最後に残された自由の方へと、身を投げるように……。」

 
 論点:
 究極的孤独とは、言葉の厳密な意味における「死に至る病」である。
 
 
 以前にも少し書いたように、哲学者としての筆者の仕事はおそらく、哲学の営みそのものが燃え尽きたかに見える廃墟の中から、打ち棄てられてはならないものを拾い上げ続けつつ思索するといった類のものである。その意味では、筆者の追い求めている哲学はいわば、スコラの伝統なき時代のスコラ哲学であるとも言えようが、今回の記事の論点に関しては古人の言にならって、「ここにおいて新しいのは思想の内容ではなく、その並べ方である」と言えるかもしれない。
 
 
 人間にとって、他者の超絶は人間として生きてゆく上で必要不可欠なものである。究極的孤独、すなわち他者の全き不在という状況においては、人間は根源的な欠損の状態、もはや病と呼ぶほかはない致死的な状態のうちで生きるほかないように思われる。
 
 
 もちろん、他者が存在しない状態であったとしても、物理的に生存することは依然として可能ではあるだろう。しかし、そのような状態における生はもはや「人間として」のそれではなく、生ける屍のような、自分自身が生きているのかも死んでいるのかもわからないような生になることだろう。それは、人間たちの世界からは締め出された生である。死ぬことを願ったとしても死ぬことさえできない生、もはや「あなた」と呼べるようないかなる他者もなく、死んだまま生者たちの世界をさまよわなければならないような「剥き出しの生」の姿そのものである。
 
 
 
スコラ哲学 剥き出しの生 キルケゴール 絶望 自殺 反出生主義
 
 
 
 絶望に関するキルケゴールの古典的な分析によれば、絶望とはただちに直接的なしかたで死をもたらすというよりも、いつまでも死ぬことのできないまま生きなければならないという終わりのない状態、自己を食い尽くして消滅することを願いながらも、いつまでもその実現には至ることのできない無力をこそ意味している。絶望において人間は、自殺しようとしても自殺することができないという無力を苦しむのである。
 
 
 その一方で、世界のうちには実際に、自らに死を与えることで自身のこの世における存在に終止符を打ってしまった人々も存在していて、絶望する人間にとっての彼らは、自分には決して実行することのできない行為を実行することで「彼岸に行ってしまった」人々である。
 
 
 しかし、どうなのだろうか。自らの意志で向こう側に行くことは、誰もが、自殺する人自身でさえもが知っているように、放棄してはならないことを放棄することであって、おそらく現実には、冷静な状態で決然とした意志とともに自死を選択することのできる反出生主義的な「英雄」なる人間は、ほとんどこの世には存在しないのではないだろうか。ひとは追い詰められた状況のうちで、外から促された事故のように、耐えがたい苦しみから逃れるために、あたかも最後に残された自由の方へと身を投げるようにして死んでゆく。生きている私たちには、そうした人々の心のうちに何があったのかを、後からただ沈思することしかできないのだろう。この点に関して哲学になしうることは、最後のところで人間をこの世界のうちに引き留めるものは何であるのかを、知的に誠実に考え続けることだけであると言えるのかもしれない。