イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

幸福の概念について

 
 論点:
 哲学には、幸福の概念を手放すことはできないのではないだろうか。
 
 
 幸福になるのは野蛮なことなのではないかと考え始めていることはおそらく、一面においては現代の人間の倫理的な進歩をしるしづけているのだろう。
 
 
 私たちは、苦しんでいる他者が存在しないかのようにして、その他者たちの苦しみを生み出している世界のシステムから多少なりとも利益と便益を受け取りながら日々を生きている。現実の持つ圧倒的な事実性を前にして私たちが時折思い返させられずにはいないのは、私たちの享受している豊かさが、私たちの見知らぬ他者たちによって肩代わりされている苦しみを歯車として回っている仕組みから引き出されているという不都合な事実である。
 
 
 けれども、その一方で、私たち現代の人間は、生きることそのもののうちに本質的に含まれているはずの幸福の次元を、それなしでは生が成り立たなくなってしまいかねないような次元をも、見失いはじめているのではないか。「人間はそもそも、これ以上新しく生まれてくるべきではないのではないか」という反出生主義者の問いかけは、哲学がこれまで持ち続けてきた幸福の観念に対して、根底のところから疑念を投げかけるものであるけれども、私たち人間に、幸福の理念を手放すことは果たして可能なのだろうか。むしろ、この理念は、人間が「人間として」生きてゆくかぎり、原理から言って、決して手放すことのできないものなのではないだろうか。
 
 
 
哲学 アウタルケイア 幸福 反出生主義 存在
 
 
 
 筆者の哲学は、幸福なるものの根源を、人間が、自分自身を超絶する他者との関わりのうちに生きるという実存論的な事実のうちに見定めようとするものである。
 
 
 哲学の伝統はこれまで主に言って、幸福を自足(アウタルケイア)の次元から考えてきた。幸福のうちに、自己を自己のイマージュで満たすという側面が存在することは否定できない以上、このことには十分な根拠があったことは言うまでもない。しかし、これまで前提とされ続けてきたこの自己なるものが、自己を超えるものとの関係のうちではじめて自己たらしめられるのだとしたら、どうなのだろうか。自己の自己への折り重なり、完結する循環の形成としての自足は、本当はむしろ、自己が自己とは根源的に他なるものとの間に取り結ぶ関係の方をこそ前提しているということになるのではないか。
 
 
 この時代の哲学は、「存在すること、生きることは善である」というテーゼをその根源において問い直しつつ、最後のところではこれを再び肯定するものでなければならない。現代の人間は、古代の哲学者たちが問題なく通り過ぎることができたこのテーゼの前で立ち止まらざるをえない必然性を抱え持っており、その中でもある人々は、「存在すること、それはむしろ悪なのではないか」と考え始めている。哲学の営みが、その不可欠な務めとして、反出生主義との終わることのない対話に取り組むことを必要としているゆえんである。