イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「他者のいない世界」、あるいは、気づかれることのない残酷さについて

 
 論点:
 人間にとって、自己を超絶する他者との関わりは、命の次元そのものを成り立たせるものなのではないだろうか。
 
 
 たとえば、「わたしは一人でも生きてゆくことができる」といった主張は、実際にはその人が公共世界、すなわち、人間たちが形づくる世界との間に取り結ぶ関係に基づいてはじめて言えることである。その人は糧や住まい、あるいは余暇の楽しみといったさまざまなものを公共世界との関わりから得ているだけではなく、何よりもまず、「人間であること」の承認を得ている。この承認に基づくことで、はじめて人間として相対的に見て他者たちから離れて「一人で生きてゆく」ことも可能になるといえる。
 
 
 病んでいる人間は、承認が人間の命にすら関わるというこの実存論的な事実を、欠損状態において逆側から照らし出す。
 
 
 彼あるいは彼女にとっては、自分自身が人間であることの自明性が失われ、いわば生そのものの剥き出しの次元がさらされてしまうことによって、自分自身が生きているのか死んでいるのかもわからなくなってしまう。「究極的孤独 ultima solitudo」とは、人間がいわばそうした生ける屍として存在している状態を指示する極限概念なのであって、実際の人間は多かれ少なかれ、通常は何らかの他者関係を持っていないということはまずないけれども、病んでいる人間はこの極限状態に近づいてゆくことによって、この現実を「他者のいない世界」として生きるのである。
 
 
 
他者の超絶 究極的孤独 ultima solitudo hommelette アントナン・アルトー 普通の人々
 
 
 
 承認の次元は多くの人間にとってあまりにも自明なものであるために、それとして気づかれることなく通り過ぎられている次元であると言うことができる。
 
 
 たとえば、公共世界は物質的・社会的・経済的な次元においてのみならず、いわば実存論的な次元においてもセーフティネットを張り巡らせており、その中で生きる人間たちが「人間として」生きてゆくことができるために、承認の次元が働くように機能しているのだが、病の場合にはさまざまな事情によってこのセーフティネットが働かなくなるために、人間はその人自身の「人間であること」さえも剥奪されて、いわば「人間の形をした、人間らしきもの hommelette」として生きてゆかざるをえなくなると言えそうである。
 
 
 病んでいる人間から見ると「普通の人々」、すなわち、病んでいない人々が残酷に見えるのは、おそらくは何よりもまずこの点に関わっているのではないか。「普通の人々」は、人間がふだん空気の存在に気づくことがないのと同じように、承認の次元が人間の生にとって必要不可欠なものであることに気づくことがなく、従って、この次元を奪われて存在している人間たちが存在することにも気づかない。アントナン・アルトーは、ヴァン・ゴッホを最後のところで自殺に追いやったきっかけは、極限状態の中で「いつも君が描いているようなものではなく、普通の絵を描いてみたらどうか」という忠告を受けたことだったと書いているが、「とりあえず、普通に〜をしてみたらどうか」という何気ない一言が一人の病める人間を殺すこともありうるという事実には、われわれは、心の中のどこかで常に注意を払っておく必要があると言えるのかもしれない。