イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

エクリチュールを再び批判する

 
 論点:
 言語活動の本質は、書き言葉よりも話し言葉のうちにこそより十全な仕方で体現されうるのではないか。
 
 
 哲学の営みは、哲学史の中で眠り込んでいる概念を目覚めさせ、それを新たな舞台の上で再演するという作業を含んでいる。プラトンが指摘した上の論点を、「存在の超絶」の観点から論じ直してみることにしよう。
 
 
 エクリチュール(書き言葉)のうちでは、言葉が宛て先を持っているという事実は、常に希薄化され、曖昧なものとなってしまう傾向がある。書物なるものは、誰に読まれるのかわからないということを本質としている。そこでは、著者が言いたいと思ったことが曲がった仕方で解釈されたり、粗雑に読み散らされたりすることは稀ではない。
 
 
 これに対して、パロール話し言葉)は、もしそれが語るすべを本当に知っている人間によって語られるのならば、そのような運命をたどることはありえないだろう。知恵のある語り手は語るべきことを、それを聞き取ることのできる相手に対してのみ語る。その語り手は相手が理解できることを、十全に理解できるような仕方でのみ口にすることだろう。彼あるいは彼女が語る言葉はまさしく、生きた言葉であり、書かれるとはいっても書物のうちにではなく、相手の魂のうちに直接に書きつけられる言葉なのである。
 
 
 
エクリチュール プラトン パロール パイドロス 形而上学
 
 
 
 言語活動が意味作用の次元と超絶の次元を共に持つという事実(前回の記事参照)は、エクリチュールの経験のうちでは常になおざりにされてしまう傾向にある。エクリチュールの経験は、いわば超絶の次元が読むものの内的独白へと絶えず変容されてしまい、恣意的な意味作用だけが元の意図を離れて際限なく漂流してしまうような経験であらざるをえない。書物によるコミュニケーションにおいては、知恵のある人間によって語られるパロールの場合ならば起きないような「事故」が起こってしまう可能性を排除することが原理的に不可能になってしまうのである。
 
 
 ここからプラトンが『パイドロス』において下した結論はよく知られている。いわく、「知恵のある人間は語るべき相手に対して語ることの方をこそ真正な仕事であると考えるのであって、書物を書くことの方は、余暇の慰みごとくらいにしか考えないであろう。」
 
 
 誤解や曲解を免れうる、あるいは、そうしたことが起こりそうな時にそれを防ぎうる「真正なコミュニケーション」は、書き言葉ではなく、話し言葉においてしか可能にならないのではないか。それは、超絶の次元が、言葉というものが常にわたしからあなたへ、あるいは、あなたからわたしに向かって語られるという人間学的な事実の本源性が十全な仕方で保たれるのはただ、上手く語られた話し言葉においてのみだからなのである。このような意味におけるパロールの本源性を、パロールのうちにすら含まれている原-エクリチュール作用の存在を指摘することによって突きくずしてゆこうとする衒学的な批判に対しては、確かに、意味作用なるものの本質はパロールよりもエクリチュールのうちにこそ逆説的な仕方で見て取りやすくなっているという事実の重要性を否定することはできないとはいえ、しかし言語活動を言語活動たらしめているあの驚くべき踏破、形而上学の言葉をもってしか語ることのできない超絶なるものは、パロールの場合と同様、本当はエクリチュールの場合においても事実的な仕方で起源に存在していたのだと答えることもできるだろう。