イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「究極的に透明なコミュニケーション」

 
 『パイドロス』に敬意を払いつつ、パロール話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の対比をもう少し進めてみることにしよう。
 
 
 論点:
 パロールにおいてはエクリチュールの場合とは異なり、コミュニケーションの透明性を高めてゆくことが原則として可能である。
 
 
 書物や文字という媒体は情報を伝達するのに便利であるように見えて、実は打ち消すことのできない欠陥を抱えてもいる。その最大のものとは、読者が書かれていることを誤解したり、誤解にもとづく抵抗感を感じていたりすることがあるとしても、書き手の側がそれに合わせて応答することができないという欠陥である。
 
 
 自明なことではあるが、本やテクストというのは相手がそれを読む際にはすでに完成されてしまっているわけで、リアルタイムでそこに何かを付け加えてゆくことはできない。従って、会話であれば「ああ、そこは〜という意味です」「そう思いますか。しかしですね、一方にはこういう事実も……」といったように、簡単なやり取りでコミュニケーションの不透明な部分を補うことができるとしても、書物においてはそれは不可能なのである。
 
 
 これに対して、会話の場合ならば、そうした補足や修正を行うことが原則的に可能である。上に述べたように、パロールの語り手は、自分の語っていることが相手に理解されていないと感じている場合には、さまざまな仕方で言葉を補うことによってそれを明確化してゆくことができる。どうしても理解されない場合には、(非常に感じは悪いが)「すみません、今言ったことは忘れてください」という扱いにしてしまうこともできなくはないわけで、少なくともこのようにすれば、「理解されていると思っていたのに、実は理解されていなかった」という可能性だけはなくなるであろう。
 
 
 
 パイドロス パロール エクリチュール コミュニケーションの不透明性 プラトン
 
 
 
 コミュニケーションのもつ不透明性を解消してゆこうとするこうした努力によって目指されるのは、究極的に透明なコミュニケーションとでも呼ぶべき理念の実現なのではないかと思われる。
 
 
 「究極的に透明なコミュニケーション」の定義:
 究極的に透明なコミュニケーションとは、語り手が意図し、また、語り手が語る際に実際に経験されている意味作用が、完全な仕方で聞き手にも再現されるようなコミュニケーションである。
 
 
 この世における言葉のやり取りというのは、おそらくは最良の場合であっても「互いに幸福な誤解」という側面をどこかで持つことは否定できないので、このような理念が現実の人間同士の間で実現されたことはこれまでになかったし、今後もないであろう。しかし、私たち人間が行う対話は、完全には実現することの不可能なこの理念の実現にどこまでも近づいてゆくことを目指さないわけにはゆかないのではないか。
 
 
 自分の言いたいことが何一つ洩れることなく完全に相手に伝わるような、決して起こりえないはずの奇跡のようなコミュニケーション。おそらく、パロールの真正性の名においてエクリチュールの不完全性を批判した時にプラトンが抱いていたのはこのようなコミュニケーションの理想型だったのであって、現実にはありえないものが現実に対して要請してくる、その要請の正当性を断固として擁護するところに彼の度外れな狂気、あるいは哲学的天才も存するといえる。もっとも、彼ほどに人の世の実情をありのままに見通していた哲学者も他になかなかいないことを考え合わせるならば、現実の彼はオプティミスティックにすぎる理想家などでは全くなく、信頼できる相手に対してはどこまでも真摯に語るが、そうでない相手に対しては一切黙して語ることのない、筋金入りの秘密主義者であった可能性の方がはるかに高いものと思われる。