イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

内面性の圏域から、言葉の経験へ

 
 予備的な考察から、探求を再開することにしよう。
 
 
 論点:
 言葉が言葉となる本源的な瞬間とは、言葉が、他者であるあなた自身の姿を顕にする瞬間にほかならないのではないか。
 
 
 他者であるあなたはわたしと同じように、実存する人間として、この世界のうちで生きている。他者は行為し、その行為によって他者自身の実存を外に表してもいる。しかし、実存する人間である他者の、その実存の最内奥はほとんどの場合、外に表れることなく、その他者自身の内側に秘められているのではないだろうか。
 
 
 古代人たちはおそらく、人間の実存は本質的に言って外に表れ出てくるものであるという、ある意味では健全な人間観を保持することができた。この意味からすると、意識や内面といった領域に関する語彙を注意深く取り除けるところに成立した『存在と時間』の叙述などはさしずめ、古代ギリシア的な人間観を取り戻そうとする試みであったとも言えそうである。
 
 
 しかし、一度開かれてしまった内面性の圏域について、あたかもそれが存在しないかのように語ることは、果たしてどこまで正当化されうるのだろうか。現代を生きる私たちにとって、隠さなければならないもの、あるいは、それを明かすことができないがゆえに病まざるをえないものとしての内面的なものの圏域は、望もうと望むまいと、私たち自身の実存を現に深いところから作り上げ、規定し、蝕んでいるのではないか。
 
 
 
存在と時間 古代ギリシア デカルト 近代哲学
 
 
 
 内面性は、それが隠されている限りは罪と病を作り出す。そして、人間が人間としてこの世で生きてゆく限り、こうした罪や病から完全に解放されることは不可能である。デカルトはいわば、疚しさなるものの形而上学的な淵源を明らかにしてしまったのだ。哲学や文学に通じている人のうちで、近代哲学が切り開いたものの見方に限界を感じていない人間はほとんど誰もいないものと思われるけれども、それでも近代哲学が顕にしてしまった圏域は、それを今さらなかったものにしてしまうことはできないほどに、私たちの実存を深いところから規定しているもののように思われるのである。
 
 
 しかし、その一方で、言葉の本質を事実的な与えのうちで考えることは、人間が、こうした内面性の圏域を超えて互いに互いを明かす可能性を考えることである。わたしがあなたにわたし自身を明かし、あなたがわたしにあなた自身を明かすという可能性はまずもって、言葉というエレメントにおいてこそ実現されるのではないか。しかし、わたしがあなたにわたし自身を明かすことと、あなたがわたしにあなた自身を明かすこととの間には、果たして対称性があると言えるのだろうか。むしろ、この二つのことの間に存在する非対称がそれとして見出される中で、言語活動なるものの本質も明かされることになるのではないか。私たちとしては、このようなことを念頭に置きつつ、言葉についての考察をさらに進めてゆくこととしたい。