イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

頽落としての不可解性の閑却

 
 論点:
 他者の言葉が帯びている謎としての性格は通常の場合、忘れ去られ、閑却されている。
 
 
 他者の言葉の理解しがたさを、不可解性と呼ぶことにしよう。他者の存在が認識の主体であるわたしを超絶している限り、不可解性は原理的に言って、あらゆる他者のたちの言葉のうちに幾分かは含まれているはずである。自己に対して透明な自己が語る「語られる言葉」とは異なって、「聞かれる言葉」は、不透明な謎としてのあり方を必ずどこかで保っているはずなのである。
 
 
 ところが、人間はさしあたり大抵はこの不可解性を捨象し、それをなかったことにして実存し続けている。すなわち、人間は不可解性にはほとんど注意を払わないか、あるいは自分の都合のよいように理解して、本当は理解し尽くしてはいないものを理解してしまったと思って済ませてしまうのが普通なのである。
 
 
 マルティン・ハイデッガーは『存在と時間』において、人間(彼の呼び方によるならば「現存在」)のさしあたり大抵のあり方を頽落として特徴づけていたが、他者の超絶という事柄に関して頽落現象を捉えようとするならば、こうした不可解性の閑却こそがそれであると言えるかもしれない。すなわち、人間は通常の場合においては、他者の言葉には耳を傾けようとしない存在者である。こうした事情を考えるならば、ある先人の表現を借りるならば、人間存在を特徴づけるのは「愛知 philosophie」よりもはるかに「嫌知 misosophie」の方であると言わざるをえないように思われる。
 
 
 
不可解性 マルティン・ハイデッガー 存在と時間 現存在 愛知 philosophie 嫌知 頽落 他者の他者性
 
 
 
 確かに、馬の合う人間同士で「話が弾んでいる」場合などは、人間が、上で主張されていることに反して互いに互いの話を聞き合っているケースに当たるのではないかとも考えられるかもしれない。
 
 
 しかし、そのような場合には人格や状況の同質性に基づいて互いに互いを「もう一人の自分」であるかのように捉えつつ語ることが可能になっており、不可解性を理解するという労を免れているという場合がほとんどであるように思われる。人間同士の間でなされる談話を注意深く聞いてみるならば、ひとは相手の異質な部分については、大抵は丸ごと聞き流しているものであることが実感されるであろう。他者の他者性は、人間の認識からはかくも抜け落ちてゆきたい範疇であると言わざるをえないようである。
 
 
 しかし、このことはいわゆる人間の頽落現象(哲学はこの現象について価値判断を下すよりも、まずはこの現象をそのものとして理解することを求める)についてのみでなく、哲学の営みそのものについても言えるのではないか。
 
 
 哲学は、言語活動を言葉の不可解性に基づいて考えるよりも、自己に対する自己の透明さを言い表す媒体として考えることの方に常に傾きがちだったのではないだろうか。この場合、言葉は明晰判明さに奉仕するべきものとして、その存在自身が語るものの認識から消え去り、いわば言葉を欠いた純粋思考だけが展開されてゆくような事態を生み出す透明な媒体のように捉えられることになる。哲学の営みがこうした「理想」と共に進められてゆくことにはある種の必然性があることも一面では確かなように思われるが、私たちとしては、言語活動の本源性を超絶と不可解性の方から捉えるという目下の課題を引き続き追求し続けてゆくこととしたい。