イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「私たちが、言葉をまだ知らなかったとき……。」

 
 論点:
 語ることには、聞くことが事実的にもにも原理的にも先立っているのではないだろうか。
 
 
 私たちはほとんどの場合、自分自身で生み出すよりも、他者から聞くことで新しい言葉を学ぶ。その新しい語は、学んでしまった後にはわたしにとって透明な、理解することのたやすいものになることだろうが、聞いた当初には、必ず何らかの謎めいた性格を帯びていたことだろう。今わたしが手にしている可解性は、かつてわたしが聞き取った不可解性を理解した結果として手元にあるものだということになる。
 
 
 たとえば、私たちはみな、自分自身の部屋の外と内とを隔てているあのガラスの板のことを、窓と呼ぶことを知っている。「窓」というこの言葉を誰から学んだのかを覚えている人はほとんど誰もいないものと思われるけれども、私たちはみなそのことを、私たちを取り巻いていた他者たちのうちの誰かから、かつて学んだのである。
 
 
 「この人は、このもののことを窓と呼んでいるようだ。」まだ言葉の使い方そのものを学んでゆく途上にあった私たちは、顔と顔を合わせて向き合っている他者が何を言おうとしているのか、そのことに心のすべてを集中させながら言葉を学んでいったのに違いない。認識の主体であるわたしはかつて、わたしを超絶する他者の言葉に耳を傾けることによって言葉の一つ一つを学んでいったのである。
 
 
 
 語り 言語の透明性 可解性 不可解性 言語の透明性
 
 
 
 独語することには聞くことが、教えることには教えられることが、本当は常に先立っている。他者の言葉に耳を傾けることなく、えんえんと自分語りだけを続けている私たちはかつて、ただひたすらに聞き続けることによって人間の言葉を学んだ。そこでは、自己のもとにとどまることなく、自己を超絶する他者の方へと出てゆくこと、他者に向かって超脱することが、言葉の学びそのものを可能にしていたものと思われる(超脱のエレメントである言語そのものが、超脱することによって学ばれる)。
 
 
 もっと遡って、私たちが語というものすら知らなかった時期のことを考えてみる。生まれてからずっと、私たちには、他者たちからの無数の言葉という言葉が注がれ続けたことだろう。私たちはそれらの言葉が意味するところを全く知らなかったが、それらの言葉の絶えることのない流れの中から、響いてくる声の一つ一つを「音」ではなく「言葉」として聞き取ることを学んでいったはずである。意味論の次元を超えて、音韻論の次元すらも、私たちは私たち自身を超絶する他者たちから、ほとんどただ一方的に与えられるようにして一つ一つのことを心に刻みつけていったはずなのである。
 
 
 今日、私たちはごく普通のこととして人間の言葉を理解し、それを用い続けて生きているけれども、そのことはいわば自らを無にして、ただひたすらに自らに向かって語る他者たちの言葉に耳を傾け続けた結果として得られたものであると言えるだろう。可解性には不可解性が、不可解性には超絶が先立っている。言語活動の本質を探ろうとする哲学的省察は、私たちが自分たち自身に与えられている言語の透明性のうちで忘れ去っている、この想起不可能な過去の方へと遡りながら考察を深めてゆくのでなければならないだろう。