イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超越論哲学を問いなおす

 
 論点:
 哲学の営みはこれまで、事実的なものの領域をそれとして思考することを取り逃がし続けてきたのではないだろうか。
 
 
 「聞くことは、事実的にも原理的にも語ることに先立っている。」このような主張を哲学の内部において検討することが難しい理由は、一つには、この主張を内観によって検証することができないからである。
 
 
 意識の内側において認識を、あるいは、認識の主体であるわたしの認識の仕方を問う限り、分析の特権的な対象となるのはわたしの思考であり、その思考に伴う「われ思う」である。カントの用語法で言うならば、それに見出されるのは悟性の概念であり、統覚であるということになってくるだろう。
 
 
 こうした探求の方法に立つ限り、探求の視野に入ってくるのはまずもって、聞くことよりも語ることの方であると言わざるをえない。より正確に言うならば、語ることの内化にして純粋化であるところの純粋思考であり、哲学は、こうした語ることの純粋思考への純粋化という手続きを経ることによって、経験の可能性の条件を問うというおのれの職分を追求することができるようになる。
 
 
 超越論哲学の理念とは、こうしたものである。この理念は従って、聞くことよりも語ることの方を特権化することによって成り立っているものと思われるが、こうした立場に立つ時には、必然的に見逃されてしまう次元が存在するのではないか。哲学は、それが直ちに超越論的な哲学としておのれの探求を開始してしまうならば、その時点で必ず見落とさざるをえない、ある種の盲点のようなものを抱え込んでしまうことになるのではないだろうか。
 
 
 
カント 超越論哲学 アリストテレス デカルト コギ ハイデッガート
 
 
 
 超越論的なものの領域を問うという課題はカントによって初めて明確に提起されたが、これはコギトあるいは純粋意識に定位しながら人間に何が認識できるのかを問うという、デカルト以来の近代哲学の問題設定を明瞭に定式化したものにほかならないといえる。
 
 
 それどころか、たとえばアリストテレスの論理学が哲学の歴史において果たしてきた役割の大きさを考えるならば、哲学そのものの「超越論化」はすでに古代から始まっていたと主張するとしても、それほど見当外れとは言えないもののように思われる。すなわち、コギトそのものへの特権的な定位は、そのものとしてはデカルトにおいてはじめて主導的なものとなったもののようにも見えるけれども、経験の可能性の条件を問うという超越論哲学の作業それ自体は、アリストテレス以降一貫して遂行され続けてきたものとするわけである。
 
 
 そうなってくると、ある意味では、哲学そのものはその当初から超越論哲学と化すことが運命づけられていたのではないかということになってきそうであるが、まさしくそれこそが、筆者がここで主張したい立場である。
 
 
 こうした立場に対しては、哲学の営みに携わっている人々のうちの一定数も賛同してくれなくはないように思われるけれども(たとえば、カント本人やハイデッガーはおそらく、この主張に対しては、それぞれ留保と注釈を付けながらではあるが頷いてくれるものと思われる)、筆者がここでさらに問いたいのは、哲学の「超越論化」が哲学の避けがたい運命であり、一面においては疑いえない正当性をさえも持つとしても、そのことによって、哲学が問わなければならない一つの領域の方もまた避けがたく探求の視野から外れてしまう可能性も抱え込むことになるのではないかという論点である。それこそが事実的なものの領域なのであり、超越論哲学という理念がそれを見えなくさせ、しかし、見えなくさせるという段階を経ることによって初めてそれとして問われうるものとする、その領域なのである。私たちとしては、もう少しこの点に踏みとどまって考えてみることにしたい。