イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

思考と超絶

 
 論点:
 思考することは、わたしを超絶する他者からの働きかけによって可能になるのではないか。
 
 
 頽落の状態、すなわち、さしあたり大抵の状態のうちにある人間は、他者からの言葉にほとんど耳を傾けることなく、ただ延々と自分の方から語り続けるのみである。能動的な理性としての人間という伝統的な人間観には、この意味からすると、頽落の方から見た人間像を皮肉なことにも裏打ちしてしまっている側面があることは否定できない。
 
 
 しかし、言語活動に関して私たちが行ってきた実存論的分析の示すところによれば、語ることには、聞くことが事実的にも原理的にも先立っているのだった。
 
 
 語ること、そして、思考することには、他者の言葉に耳を傾け、それを理解したという事実的な過去が必ず先立っている。この事実的な過去は、記憶としてわたしの意識の現在のうちに働きかけ続けているものでもあるが、まずもって、わたしを超絶する現実の他者によって現実に行われた語りかけの事実として、かつて実在した過去そのものでもある。この実在的な過去が存在したのでなければ、現在のわたしが語るということも、当然なかったことであろう。
 
 
 しかし、語ることに対する聞くことのこの先行性は事実的なものであるだけでなく、原理的なものでもある。わたしの語る言葉の一つ一つ、音の響きや文字の一つ一つに至るまでが、わたしを超絶する他者からわたしに対して授けられたものであると言えるのではないか。この意味からするならば、わたしが一人の実存する人間として言葉を語るとはさしずめ、超絶による働きかけから始まって、他なるものとして与えられるエレメントとしての言語のうちでわたしを形づくり、語り出すことであると言えるのかもしれない。
 
 
 
頽落 超絶 実存
 
 
 
 かくして、私たちが行っている人間の実存論的分析においては、自己に発するのではなく、自己を超絶する他者からの働きかけを内化し、ついには能動化してゆく過程との関わりのうちで人間の人間性の根底が探られているといえる。ここで問題になっているのは、人間性の究極の基礎を、語ることではなく聞くことのうちに探ろうとするような人間観である。
 
 
 人間の最大の尊厳ははたして、自己から他者に向かって語ることのうちにあるのだろうか。そうではなく、最大の尊厳はむしろ聞くことのうちに、自己を超絶する他者の言葉を聞き取ろうと努めることのうちにこそあるのではないか。自己から発して語り、能動的に思考する理性として思考し、表現するという行為そのものが、自己のうちにとどまりながら自己の外へと出てゆくこととしての超脱によって、自己を超絶する他者の方へと脱-存してゆくことによって初めて可能になると言えるのではないか。
 
 
 かくして私たちは、自己のうちに閉塞し、ひたすら自己の方から語り続けるという頽落した人間の実存の根底に、実存する人間の本来性としての「聞く人間」を発見したことになる。私たちはここから、頽落しているのではない状態における人間の人間性がどのようなものでありうるのかについて、さらに探求を進めてみることができるはずである。