イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

一月の振り返り

 
 今回は内容の区切り上、少し早めにはなるが、一月の振り返りをしておくことにしたい。次回からは、また目下の問題の解明に戻る予定である。
 
 
 一月は言語活動の本質を求めて、超脱のエレメントとしての言語という言語観にたどり着きつつ、「語ることに対する聞くことの先行性」というテーゼを検討し続けた一ヶ月だった。二月の探求では、聞くという行為の根底にある「信じる」という契機の分析を通じて、真理の問題は倫理的関係の考察なしには十全な仕方で解明されえないというテーゼを検討してゆく予定である。
 
 
 聞くという行為がなぜこれほどまでに人間にとって重要なのかといえば、それはこの行為によってのみ、人間が他者という「存在の超絶」について何ほどかを知る可能性が開かれるからである。
 
 
 これまでの分析は、人間が言葉を話す、あるいは、意識において思考するといったことでさえもが、事実的にも原理的にも、聞くという行為によってはじめて可能になることを示してきた。人間は語るよりもまず、何よりも聞くことによってこそ「人間になる」。
 
 
 存在の超絶という理念に導かれて進んでいる筆者の探求は、この理念を解明しようとする試みの中で、実存する人間の人間性を根底から問い直すという課題に直面させられている。この意味で、存在の意味への問いを問うために現存在の実存論的分析論に向かっていった『存在と時間』の道行きには、最近では前にもまして事柄上の必然性を感じずにはいられない。筆者の哲学は他の哲学者のそれと同じように、さまざまな先人たちの仕事の上に成り立っているが、筆者自身にとっては、マルティン・ハイデッガーエマニュエル・レヴィナスという二人の巨大な先人の思考の軌跡は特別な意味を持っている。残された著作を通して日々彼らの声に聞きつつ、自分自身の探求を進めてゆくこととしたい。
 
 
 
存在の超絶 マルティン・ハイデッガー エマニュエル・レヴィナス
 
 
 
 個人的な話にはなってしまうが、筆者は1月の前半頃には、自分自身の哲学がこの世には何の意味も持ちえないのではないかという問題について、少なからず絶望しながら悩み続けていた。これについては現実的な悩みであるというよりも、今にして思えばある種の通過儀礼のようなもので、「誰一人その成果を分かち合ってくれる人がいなくとも、人間は哲学の探求に向かうことができるのか」という問いに直面する時期が来ていたということなのだろうと思う。
 
 
 その結果として定まったのは、以下のような方針である。すなわち、このブログを書く際には哲学の問題の解明という仕事を果たすことを、何よりも優先すること。いたずらに難しい言葉を用いることなく、しかし、事柄自身の方がそれを求めてくる場合には、たとえ誰にも読まれなくなるほどに晦渋な言葉づかいを用いることを強いられようとも、そのことをあえて厭わないこと。その上で、誰か一人にでも書いたものを読んで何かを感じてもらえたのならば、それで自分自身の仕事は果たされたと考えて満足すること。
 
 
 しかし、1月の悩みと苦しみを通してわかってきたのは、世の中には、哲学の探求という厄介この上ない試みに興味を持ってくださる奇特な人々も、少なからずいるということであった。このように偏屈なブログに目を通してくださる方にはひたすら感謝せずにはいられないが、問うことの深さという点では同時代の誰にも負けないような哲学を目指して日々邁進してゆく予定である。読者の方々の2月が、心穏やかで実り豊かなものであらんことを!