イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

日常生活の一場面の例

 
 論点:
 私たちの日常生活は、他者の言葉を信じることによって成り立っている。
 
 
 具体的な場面を思い描いてみることにしよう。マンションに住んでいるある男性が、朝の身じたくを済ませて、仕事に出かけようとしている。男性がドアに手をかけようとした時、彼の妻が彼に近づいてきながら、彼にこう言う。
 
 
 「あなた、今日は傘をさしていかないと。さっきベランダに出た時、雨が降っていたのよ。」
 
 
 男性はその言葉を聞いて、傘立てから傘を取り出して出かけてゆく。取り立ててどうということのない一場面ではあるが、この場面からは、言語活動の本質を探る上で重要な論点を引き出すこともできるのではないか。
 
 
 この男性は、雨が降っている情景を自分で見たわけではない。彼はそれを、彼の妻の口から聞いたのである。おそらく彼は、玄関のドアを開けた後には、降っている雨を自分自身の目で見ることだろう。しかし、以下で論じることにしたい文脈においては、彼が外の雨降りを妻の言葉を通してのみ信じている時間が、たとえ短かろうとも存在していることが重要なのである。
 
 
 このように「聞いて信じる」という行為がなければ、彼は傘を取り出しはしなかっただろう。自分で直接に体験していないことを、他者の言葉を通して信じること。少し検討してみるならば、私たちの日常生活は、このように信じることの数限りない積み重なりによって構成されていることが分かってくることだろう。
 
 
 
存在と時間 アポファンシス ハイデッガー
 
 
 
 「言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。」『存在と時間』第44節においてハイデッガーは、言葉の本質を「見えるようにさせる(アポファンシス)」ことのうちに見て取っている。彼の言うような「覆いをとって発見すること」という契機が、言葉の本質を考える上で見逃すことのできない論点を提起していることは間違いないと言っていいだろう。
 
 
 しかし、そのように「覆いをとって発見すること」、さらには、言葉が意味を持つ言葉として聞き取られるということそれ自体が、その言葉を信じること、そして、その言葉を語っている他者を信じることによってはじめて成立するのではないか。意味作用の次元は超絶の次元を、そして、後者の次元において生起する「信じる」という契機を前提とすることによってはじめて開かれる。このようにして言葉が何らかの意味を持つものとして信じられつつ聞き取られることによってはじめて、言葉が世界における何らかの事象について「覆いをとって発見すること」も可能になるのではないだろうか。
 
 
 上述の場面に戻るならば、男性は妻の言葉を、その言葉の正しさが証示されることのないままに聞き、その聞き取った言葉に基づいて行為している。彼は妻の言葉を、天候について正しいことを告げるものとして「信じて」いるのである。私たちはここに、言語活動に関する哲学的省察が決して見落とすことのできない契機が存在しているものと考える。私たちの分析はこの後に、人間にとって真理の開示という出来事は、究極的には倫理的関係に基づいてのみ可能であることを示すことになるだろう。