イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学史の例

 
 信じることの問題圏の広がりを確かめるために、一つの問いを具体例として取り上げてみることにしよう。
 
 
 問い:
 しっかりとした哲学を築き上げるためには、哲学史を前もって入念に学んでおくことは必要か?
 
 答え:
 ①必要である。
 ②必ずしも必要ではない。
 
 
 いち哲学者としては、筆者は①の立場を強く支持する。物事を哲学的にしっかりとした仕方で考えたいのであるならば、ひとは哲学の歴史を学ぶことなしにその企てを十全な仕方で遂行することはできないだろう。過去の時代であるから今とは関係がないということは全くなく、古代から現代に至るまで、できるだけ幅広く先人たちの言葉に聞いておくのが望ましいのではないかと個人的には思う。
 
 
 けれども、これとは異なって、②の立場をとる哲学者もいる。たとえば、百年ほど前に活動した論理実証主義者たちは、先人たちがこれまで形而上学と呼んできたものは単なるおとぎ話に過ぎないのであって、哲学は「科学の哲学 philosophy of science」となるべきであり、それ自体も「科学的哲学 scentific philosophy」でなければならないと考えていた。ここまで極端な立場は取らないまでも、理論的にも実践的にも②の立場を支持している哲学者たちは、今でも多かれ少なかれいるものと思われる。
 
 
 いま、まだ哲学を全く学んだことのない初学者(表現の便宜上、男性とする)のことを考えてみよう。彼は上の問いに対して、明らかに自分で判断を下すことの難しい状況にある。彼は学びを続けるにつれて、講義室や読書の中で、①と②のそれぞれを主張し、実践している哲学者たち(①と②の間にはもちろん、無数の中間的段階がある)に出会うことだろう。彼は上の問いに対して、どのようにして自分の意見を形づくってゆくことが予想されるだろうか。
 
 
 
 形而上学 科学的哲学 コモン・センス コンセンサス 哲学
 
 
 
 明らかにそれは、それぞれの哲学者たちが言っていることを信じたり信じなかったりすることによってであろう。彼は自分の目で見た範囲内で、どの哲学者が信頼できそうでどの哲学者がそうではないか見当をつけつつ、自分が信じた哲学者たちの主張に合わせながら自分の立場を少しずつ定めてゆくに違いない。もちろん、学んでいる途中で自分自身の立場が①から②へと、あるいは②から①へと移ってゆくこともあるだろうが、その場合にも自分で考えたことだけでなく、先人たちが言っていることが彼に何らかの影響を及ぼすことはほぼ間違いないものと思われる。
 
 
 前回取り上げた天候の例では、ひとは他者の言葉を信じる上で迷うことなく、また、それで問題が生じることもなかった。それに対してこの「哲学史を学ぶべきか?」といったタイプの問いに対しては、ひとは①と②双方の立場を主張している他者たちの言葉に耳を傾けつつ、そのどちらを信じるかについて自分で決めてゆかなければならない。ひとはいわば、学んだ後でなければ判断を下すことのできない問題について、学ぶ前から、信じることに基づいて判断を下すことを求められるというわけである。
 
 
 おそらく、哲学の営みにおいてはその本性から言って、他のどんな学問にもまして他者の言葉を信じるという契機が(コモン・センスやコンセンサスをあえて疑うという態度にも劣らず)重要な役割を果たすものと思われるが、このことは、何も哲学だけには限らない。私たちの生はそのかなりの部分において、自分だけでは判断を下すことのできない事柄について、他者の言葉を信頼することに基づいて判断を下し続けることによって成り立っているものと思われる。