イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

探求の暫定的な結論

 
 そろそろ、昨年の十月末から始めた探求に一区切りをつけることにしたい。私たちははじめに、次のような問いを立てた。
 
 
 問い:
 わたしは他者について、何を知りうるか?そして、その他者といかにして関わるべきか?
 
 
 問いの前半部「わたしは他者について、何を知りうるか?」については、私たちは今や、次のように答えることができそうである。
 
 
 問いへの答え:
 認識の主体であるわたしは事実的な与えによって、他者の真理を、すなわち、他者自身がそうある通りの他者の姿を知ることを希望することができる。
 
 
 他者であるあなたが認識の主体であるわたしの意識を超絶していることを考えるとき、このような認識が事実として与えられるというイデーは、何か真に驚くべきことを、モナドとしてのわたしの孤絶をも打ち破るような形而上学的驚異の可能性を示唆するものであるように思われる。
 
 
 十二月から二月までの探求で追い求めたのは、このような出来事が生起するために、実存の主体であるわたし(認識の主体であるわたしは、世界内に実存している一人の人間でもある)が満たしていなければならない条件であると言うことができるだろう。事実的な与えは、もしその与えが事実として与えられるとするならば、他のどんな経験よりも、とりわけて他者の言葉の経験を通して与えられることであろうが、そのためには、実存する人間であるわたしが聞くという行為の本来性を取り戻すのでなければならない。この本来性の取り戻しは、語ることに対する聞くことの先行性というテーゼを経つつ、聞くことの根底にある信じることという契機にまで辿りつく。信じるとは、独白の主体であるわたしが独白の特権を放棄しつつ、わたしを超絶する他者であるあなたが真理を語るという可能性を受け入れることである。他者自身がそうある通りの姿について何事かを知ることは、実存する人間であるわたしがこの可能性を受け入れることによってはじめて可能となるもののように思われるのである。
 
 
 
 事実的な与え 実存 公共世界 有用性 人間 公共性
 
 
 
 問いの後半部「他者といかに関わるべきか?」については、とりあえず、「その答えを知るためにはまず、他者自身について知ることがその条件となるだろう」と言うことはできそうである。他者とありうべき仕方で関わるためにはその前提として、その他者のことを十分に知っているのでなければならないことは間違いない。ところが、公共世界をめぐる二月の後半の分析によって示されたのは、人間が公共世界を生きているという事実によって、各々の人間同士が真正な仕方で語り合い、聞き合う可能性が著しく阻害されているという次第であった。
 
 
 公共世界における言語活動は、有用性の論理による絶えざる駆り立てのうちに置かれている。この駆り立ては、当の人間自身が気づかないうちに語ることと聞くことの可能性を塞ぎ立てることで、人間から人間自身の実存を隠蔽してしまう。病むということが現代の人間にとってかくも身近なものとなり、人間にとって、何らかの仕方で病んでいるという以外の生存のあり方を想像することさえもがほとんど不可能になっているとすれば、それは現代の世界を突き動かしている駆り立ての動向が、人間の人間性を脅かすほどまでに昂進しているからに他ならない。従って、私たちとしては他者についてのこの探求を、公共世界、あるいは人間の公共性についてのさらなる考察が要求されるこの地点において中断せざるをえない。人間が本来的に実存することの可能性を塞ぎ立てている「公共的なるものの見えざる専制」のあり方が解明されてはじめて、人間同士が真正な仕方で語り、聞き、関わってゆくことの可能性も思考されうることだろう。