今回の探求の主題は、次のものである。
問い:
何の前提を置くこともなしに、絶対に疑うことのできない真理なるものが何か存在するか?
前提なしにゼロから哲学を開始することはこれまで、哲学の果てることのない要求であり続けてきた。
哲学の歴史を学ぶ人間は、「これらすべての哲学は、要するにそのそれぞれが、各々異なった前提から出発して思惟の体系を組み上げたものに過ぎないのではないか」という印象を避けがたく持つことになるだろう。それぞれの哲学が根底に宿している前提を丸ごと受け入れてしまいさえすれば、その中に入っていって学べること、経験できることも多い。しかし、他でもないその前提をなぜ受け入れなければならないのか、なぜ他の前提ではなく、その前提から出発しなければならないのかとなると、ほとんどの場合には、そのことの必然性は明らかではないのである。
おそらく、こうしたことは哲学者たちの不注意によるものであるというよりも、哲学と生の本質そのものに起因することではあるだろう。それでも哲学者たちは各人なりの仕方で、前提なしに考え始めることを目指し続けてきた。人間がものを考える限り、あるいは、考えるという行為が生起する限り、必ず辿り着かざるをえない行き先なるものが何か存在するのではないだろうか。思考には、探求を経た後に何らかの絶対的必然性に到達することは、果たして不可能なのだろうか。
この絶対的開始なるイデーを徹底的に追い求めて仮借なき哲学の方法にまで練り上げた最初の人は、言うまでもなくデカルトである。
デカルトが創始した省察の方法は、古代人たちのように、まるで雷に打たれるかのようにして前提に襲われるのでも、中世人たちのように前提を信じて受け入れるのでもなく、あらゆる前提を根こそぎにすることから思考を開始する。彼とともに、懐疑しぬくことは哲学の欠かすことのできない流儀となり、彼とともに、権威ではなく理性の明証によって自分と同じように考えることを万人に要求するという途方もない企てが、哲学の営みに避けがたく取り憑くこととなった。
事象そのものが、生それ自体がすでに反駁不可能な前提を含みこんでいるとすることによって、現象学は果たしてデカルトの方法を正当な仕方で受け継いだのだろうか。現象学はむしろ、前提は意識に対してすでに現前しているとすることによって、デカルト的な懐疑の荒れ狂う力に対して見て見ぬ振りを決め込んでしまったのではないか。
筆者がこれから試みてみたいのは、デカルトが創始したこの伝統の根源に立ち返りつつ、ゼロから哲学を開始してみることである。このような省察を試みるに際しては、その手法の要求するところからして、何らかの知識や用語を入念な検討を経ることなしに持ち出すことは許されない。事柄上の必然からして当のデカルトをはじめとする先人たちの発見に言及せざるをえない場合であっても、省察がこの省察のみで完結した内容を持つことになるよう、細心の注意が払われなければならない。