論点:
懐疑に制限をかけないとすれば、その荒れ狂う力にはほとんど限りがない。
たとえば、philo1985であるこのわたし(一応、記述の必要上から具体的な人間を置くが、以下の省察は原理的にはあらゆる人間に対して妥当するはずである)にとっては、「わたしはphilo1985という一人の人間である」というのはこの上なく確かなことであるように思われる。日常生活の中でこのことを疑うとすればほとんど狂気とも言うべきであろうが、しかし、疑うことのできないように見えるこのことにしても、「実はphiloではない誰か」がいまphilo1985の夢を見ているという可能性は、厳密に言えば排除できない。
ここで重要なのは、このような可能性が現実的かどうかでは全くない。
現実面からいえば、わたしがphilo1985であるというのはほぼ絶対に確実であり、わたしは省察する主体として、これ以上ないくらいに確実なものをあえて疑ってみているに過ぎないのだろう。しかし、「ほぼ絶対に確実」と「絶対に確実」との間には、日常生活においては無視しうるとはいえ、論理の上からいえばほとんど無限ともいえる違いがある。上記の例でいえば、「philo1985ではない人間がphilo1985の夢を見ている」という可能性が絶対に確実に排除できるのではない限り、わたしには、「わたしはphilo1985である」を絶対に確実な真理としては認めることができないのである。
デカルトはここから、さらに極端な想定をあえて立てるところにまで進んでいった。すなわち彼は、この上なく有能で狡猾な霊が彼自身を誤らせようとしているとしたらどうなのだろうか、と問うたのである。
その先例に従って考えてみるならば、例えばこうなる。わたしの魂というか意識というか心というか、とにかくそうしたものはデカルトが言うところの狡猾な霊(悪霊と呼ぶことにしよう)の手中にあって、今この瞬間のわたしは、その霊によってphilo1985という一人の人間であるという幻を見せられている。
悪霊は、純粋な悪意によるのかそれとも他の何らかの意図があるのかはわからないが、わたしに対してあれやこれやのもの、わたしが今この瞬間にこの部屋にいるとか、ほら、お前はあの時生まれただろう、お前もずいぶんこの世に馴染んだものだ、愛したり憎んだり、楽しかったり悲惨だったり、お前はずっとこれからも忙しいぞとか、そういったことを思い込ませようとしているとする。本当のわたしはまだ一度も生まれてもいず、この世なるものも全く存在せず、わたしはただその悪霊の手中で弄ばれているのに過ぎないのにも関わらずである。
こうした想定は言うまでもなく、現実的な観点からすれば非常に馬鹿馬鹿しいものではあるが、それでも、こうした可能性を絶対の確実性をもって排除することができないという論点の方には、哲学的に見ても非常に大きな重要性があると言わざるをえない。このような論点を討議されるべき哲学的問題として立てたデカルトの力量(このような想定は誰にでも思いつくが、それを公衆に向かって問題として提起するのは万人になしうることではない)には驚くばかりであるが、私たちも引き続き、この路線に沿って考え続けてみることにしよう。