イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

懐疑することの意義に対する、ハイデッガーの反論

 
 今のこの瞬間にも悪霊がわたしを欺き、わたしをこの部屋にいると思い込ませようとしているのかもしれない。デカルトが提起したこのような可能性を哲学問題として論じることには、筆者自身としては一定の意義があると考えてはいるものの、こうした可能性を想定するに際しては、哲学者の中からもそれに反対する人々が出てくることは避けられないものと思われる。
 
 
 彼らの主張は、「それほどまでに不自然で人工的な想定を行う必要がどこにあるのか」という一点に尽きるけれども、そこには単なる否定にとどまることのない、極めて重要な論点も含まれている。例えば、反デカルト的な立場を堅持したことでよく知られているマルティン・ハイデッガーは『存在と時間』第44節cで、次のように書いている。
 
 
懐疑主義者が存在し、しかも真理を否定するという存在においてじぶんを理解してしまっているかぎり、自殺の絶望のうちで、現存在を、かくてまた真理をもかき消してしまっているのである。」
 
 
 ハイデッガーが言いたいのは、次のようなことである。もしも省察する主体が懐疑することによって自分自身の体験しているものを疑い、たとえば「今この部屋にいること」といった事実までをも疑うのだとすれば、それはほとんど頭の中で自殺するようなものである。
 
 
 なぜなら、その人は自分に与えられているもの、それを疑ってしまったらもう何も残らなくなってしまうものをあえて偽であるとすることによって、自分から、もはや真なるものが何も存在しないような状況に嵌まり込んでしまったからである。悪霊の存在を想定する人は、いわば本当に一種の悪霊に取り憑かれている。その悪霊とは懐疑する人の懐疑それ自身なのであって、その人は自らの疑いそのものによって、自分自身の世界内存在をも消し去ってしまうことだろう。
 
 
 
悪霊 ハイデッガー 存在と時間 現象学
 
 
 
 上にも述べたように、ハイデッガーの上のような主張は彼自身のものであるのみならず、広く現象学者一般に、そして、少なからぬ数のその他の哲学者たちからも共感を得るものなのではないかと思われる。
 
 
 すなわち、「今この部屋にいること」、あるいは、一人の人間であるこのわたしがこの世界のうちに存在しているといったようなことは、もはや「それは正しい」としか言いようのないような最も根源的な所与に当たるものである。それは疑うべきものなどではいささかもなく、かえってその与えを与えとして根源的に体験しつつ、その与えを言葉のうちにもたらすことこそが哲学の務めなのではないのか。人間は、「この現実」が本当はどれほど途方もなく、驚くべきことであるのかを忘れている。いわば人間は、存在することの驚異に対する絶えざる忘却のうちに生きることを運命づけられているのであって、考えることの使命は、その忘却に抗いつつ、「この現実」の驚異をそれとして取り戻すといったことの方にこそあるのではないか……。
 
 
 上のような主張は、それが危機的なリアリティ喪失の時代としての二十世紀の哲学の中核的な発見に結びついているものであるがゆえに、決して無視することができないものである。悪霊を想定して「この現実」の重みを疑ってみることは、果たして精神的な自殺をしか意味しえないのだろうか。懐疑の意義についての問いかけは、何が現実で、何が妄想あるいは狂気であるのかを決定する哲学の闘いにおいて、いわば激烈な戦闘地域を形づくるものであると言えるのかもしれない。