イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

生来的なグノーシス主義者としての人間存在

 
 懐疑することの意義をさえも懐疑しなければならないとは、哲学とはまことに因果な営みであると言わざるをえない。状況を整理してみることにしよう。
 
 
 ①懐疑することによって、省察するわたしは自分自身の世界内存在を、あるいは、これを限りにと与えられている「この現実」を失ってしまう危険性がある。「この現実」、たとえば今わたしがこの部屋にいてものを考えているといった事態は、何の根拠も裏づけもなく「ただ与えられる」という仕方でしか与えられることがないのかもしれない。もしもそうであるとすれば、たとえば「狡猾な悪霊がわたしを騙そうとしているのかもしれない」と考えることは、ほとんど精神的に自殺することにも等しいのではないか。
 
 
 ②一方で、悪霊がわたしを欺いている、あるいはそれに類した可能性(言うまでもなく、悪霊というのはものの例えようなものでもあって、要するにここで考えたいのは、疑いがないはずの「この現実」が丸ごと転覆されてしまうという可能性に他ならない)は、論理的にはあくまでも残る。すなわち、わたしは今この部屋で考えているという仕方で世界内存在している一人の人間なのではなくて、世界内存在していると悪霊によって思い込まされている「考えている何ものか」に過ぎないのかもしれない。
 
 
 この場合、「この世界が存在していること」のみならず、「わたしがphilo1985という一人の実存する人間であること」すらもが危険にさらされることになる。わたしはたとえば、あれやこれやの妄想を吹き込まれながら一人で独白し続ける一種の球体のごときもの(「目もなく、鼻もなく、口もなく……。」)に過ぎないのかもしれない。悪霊がわたしを欺いているとすれば、わたしには、自分が人間であるということすらもがもはや確かではなくなってくるように思われるのである。
 
 
 
悪霊 グノーシス主義 省察
 
 
 
 すでに述べたように、実践的な見地からすれば②の可能性は極めて馬鹿馬鹿しいものに見えることは否定できないのであって、ほとんど問題とするにすら値しないようにも思われる。しかし、こと絶対的な真理の探求ということになってくると、このような可能性はどこかでわたしに取り憑き続けていて、わたしが何を口にするにしても、その可能性は「本当は、すべてのことは茶番に過ぎないのではないか」とわたしに囁き続けてやまないのである。
 
 
 それに加えて、次のような事情もある。人間は、その本性からして「この現実」から逃れたくてたまらない存在である。映画や小説の中では、この世界は本当は仮想現実なのではないかと絶えず夢想したり、自分が男ではなく女であったらとか、女ではなく男であったらとかいったことを考え続けたりしている。人間は、自分でもそれと気づかないうちに、この人生は誰かが自分に吹き込んだ虚構のようなものだと考えたがっている。人間にはいわば、「この現実」そのものが悪霊によって吹き込まれた悪い冗談であった方が都合がよいのである(生来的なグノーシス主義者としての人間存在)。
 
 
 省察するわたしの精神もまた他のすべての人間精神と同様、妄想や誤謬のうちにさまよい出ることを常としている。しかし、わたしは今、絶対に疑うことのできないものを求めて省察を行っているのであるから、「この現実」をそのまま受け入れることも、「この現実」のただ中で虚構をもてあそび続けることもやめて、何か確かなものがわたしに残されているのではないかどうか、検討を続けてみることにしよう。妄念のうちで漂い続けることが私たち人間の避けられない性であることを、忘れることのないように努めながら。